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description=西嶋先生(愚道和夫老師)が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を勉強してます。自分の部屋で密やかに坐禅を始めてみませんか。;

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あるいは耳を通じて音を聞き取る能力だけを問題にして説法を聞くと言う事ではない, 父母のまだ生まれていない以前, あるいはこの世の中に最初の仏が出現する以前の無限の過去から無限の未来に至るまで, 心のすべて, 体のすべて, 真実のすべてを尽くして説法を聞くのである, つまり現在の瞬間の前後にわたって説法を聞く事が行われるのである, これらの説法を聞く事態がいずれもその説法に伴う利益を伴うのである, に伝わって来て, わかった, わからないという問題がないならば, 説法は聞いても役に立たないと主張すべきではない, たまたま何らかの機縁で仏道の教えを聞きたいという決心をして, 説法の行われる場所に坐っているという事自体が, その人々にとって絶対の意味をもっておる, ですから声が聞こえていって, その意味が分かる, わからないの問題以前に, 説法はあるんだし法を聞くという問題はあるんだと, こういうことを言われているわけであります, という事はあるのである, 心が何処かへ行ってしまっていて, 我が身がどこにあるのかわからないと言う状態でも説法を聞く事はあり得るし, それによって利益を得ることもあり得る, 真実を得られた祖師方, と言えども, 例外なしにこの様な時期を経過した後に仏になり祖となるのである, その意味を凡人が頭の中で想像してみても, どうしてそのすべてが分かると言う事があり得よう, 体がどういうものであり心がどういうものであるかという事さえ, 我々自身が捉える事ができないのが日常生活における現実の事態である, 自分自身の体や心でさえ捉える事が出来ないのが我々の日常における現実の事態である, ところです, ただ自分がどういう事をしたらいいのかと言う事がハッキリしないままに, 不安に駆られたり腹を立てたり, 愚痴を唱えたりと言う事で何となく時間がつぶれてしまって, 数十年経ってしまうという場合も決して少なくはない, 自分自身が気持ちを落ちつけ体を落ちつけて, 毎日何をしたらいいかと言う事が理屈でなしに分かると言う事が大切な事になります, その点では坐禅というものは, 例え話で言ってみればコップの中に水を入れてその中に灰を入れたとする, それを割り箸でかき回していると水はいつまでも濁っている, しかしかき回すのを止めて五分か十分も置いておけば, 灰は下の方に沈んで水が透明になる, と言う事です, 我々は自分自身で心や体をかき回しているから, 不安があったり, 落ち着かなかったり, あるいは腹が立つたり, 愚痴が出たりと言う事になるわけです, だけれども, かき回す事をやめれば自然に静かになってくる, だから坐禅と言うのは, そういう点では心や体をかき回す事を止めると言う事, そういう形で毎日自分と睨み合っておれば, 毎日何をしたらいいかと言う事がはっきりわかる, そう言う事にもなろうかと思うわけです, 人間が一生を賭けてどう言う事をやるかと言う事の一つの基準としては, 自分自身を見失わない様にして, 自分自身が毎日何をやったらいいかと言う事を常に捉えておる事がかなり大事なのではなかろうか, とそう言うふうに感ずる訳です, そしてそう言う事の積み重ねが自分自身の人生を一番いい結果に導く, つまり, とは何かというとかき回す事を止める, そうすると我々が人生をよく送るためには, 各人だれでも, 一日一日どう過ごすかによって各人の人生が決まると言う事は疑問の余地のない, 我々の体や心を振り返ってみても, その限界というものがどこにあって, 釈尊の説かれた教えの力を体で受け取り心で受け取る事態というものは, それは単に凡人だけがそういう状態なのではなくて, 体が失われ心が失われたという状態でも, 説法を聞くことによって利益を得る, 本文に戻ります, そういうことを主張しておられるわけであります, 我々は常識的には, わかったわからんかによって説法の価値は決まると考える, それは現在の瞬間の直前において聞く場面もあれば, 現在の瞬間の直後において聞く場面も存在する, およそ説法を聞くという事は耳と言う感覚器官で聞くだけの問題ではない, 2026年10月06日, 体とか心と言う土壌に種を蒔く形になって, その蒔かれた種が腐って無駄になってしまうという時期は決してない, 結局その種が蒔かれてそれが成長し, 時間が経つと共に伸びていって結果をもたらすと言う事が例外なしに行われるのである, 仮に釈尊の教えを説法の形で聞いたとしても, どう理解していったらいいかという方法に進歩がなく, 聞いたことをしっかり覚えておくだけの力がないならば, その利益はないと考える, そして体や心を総動員して, 広範囲に記憶し説法をたくさん聞く事こそまさに最も大切な事だと考えている, 説法が終わってすぐ席を立とうとすると, たちまち何が何だかよくわからなくなってしまう事があった場合に, その様な形で説法を聞いたとしても, 仏道を学ぶ上においてどのような効果があるのかと主張するならば, その様な主張は正しい師匠に出会っていないところから生まれてくるのである, 師匠と弟子との間で一対一の形で受け継いでおらない人の事を, 正しい師匠ではないというふうにいうのである, は訓で読むと, は断念すると言う意味ではなくて, 明らかにすると言う, 意味です, 仏教ではこの世の中を考えていく場合に, 四段階の考え方でいくべきだという主張があります, それが四諦論の意味です, ああしたい, こうしたい, ああしなければならない, その反対に, ああしたくない, こうしたくない, と言う理想や願望を基準とした考え方, 頭で考えた理想を求め一所懸命やると現実にぶつかって傷つく, と言う考え方, だから原因結果の関係の集積に縛られている, という点では優れているけれども, 人間の努力と言うものにあまり信頼を置かない, どうせ駄目だからと諦めてしまって生きている張り合いがなくなってしまう, と言う事に気付かれた, 理想を追求しながら, しかも現実と調和して行く生き方が何処かにないかと修行し苦心された, 人間が生きがいを感じ人生に意味をもたらすものは, 何をするか, どういう行動をするかと言う事が大切という事に, 気付かれた, また人に被害を与えると言う事もある, 実際に行動するという事は簡単なようで難しい, はどうしたらいいのかと言う問題になる, 釈尊が説かれた事は, 人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動は自分自身をも傷つけないし, 人にも迷惑を与えないと言う事, それはなぜかというと我々は法と言う現実の世界の中にいきている, その原則に従って生きるならば, 自分も満足するし人にも迷惑をかけないで, 自分にも他人にも幸福を与える事が出来る, と言う事を悟られて, その自分の本来の状態に戻る修行法として坐禅と言う事を考えられた, 釈尊は人間が幸福になるためには, 自分の本来の状態に戻らなければならない, だからその法の世界を支配している原則を自分自身が身につけて, 実際に日常生活で積極的に行動しながら, しかも自分が傷つかないで, 他人にも傷を与えないと言う生き方, 行動はそれがまずければ自分自身が被害をうける, 道諦の考え方, 釈尊が説かれた事はものを考えると言う事, あるいは物質的に色々なものを受け入れると言う事よりも, 釈尊は1, 集諦の考え方では人間は幸福を感じ得ない, 滅諦の考え方, 人間が良心的に努力すると言う事よりも現実がどうなっているかと言う現実そのものを見る, この世の中は物質的な物の集まりで, 原子とか分子とかと言う細かい微粒子の集まりで出来上がっている, 集諦の考え方, 人間が誰でも最初に持つ考え方, 苦諦の考え方, 釈尊の四諦の教え, は仏教の大切な考え方として何回も説かれています, 釈尊以来代々の祖師方によって伝えられきた正しい教えを, 説法を聞いてもすぐに忘れてしまい, ところが愚かな人々が考えるには, 説法を聞く事の効果と言うものは, 2026年10月07日, 代々正しく伝えられてきた教えを身につけている人が正しい師匠である, 説法を聞くという効果が多少ではあるけれども, 心に説法の効果というものが行きわたって感じられる時期だという事が言える, 体全体, 過去における体全体, 心全体, 過去における心全体, 心の今後における全て一切の直接原因, 一切の間接原因, 一切の果報, 一切の人間の行い, 一切の外見, 一切の本質, 一切の実体, 主観客観の全て, 髄という一切のものに亘って, 法を聞いた功徳が具わっている, 説法の一切, 日常生活, 行住坐臥, の一切が具体的に現れ, 天地一杯にみなぎった状態であるという事が言える, 釈尊の教えを身につけた方の説法の席に参加して, 釈尊の説かれた教えの皮, 髄を参究した場合, 説法が持っている力や影響力が聞く人々に影響を与えない時期はないのであって, 説法を聞く事に伴う宇宙秩序, 釈尊の教え, の影響力が効果を及ばないところはある筈がない, ある場合には一瞬のうちに過ぎてしまうとか, ある場合には永遠に近い様な長期にわたって, 結果が現実のものとなる事態を見聞きするのである, 強いて投げ捨てるべきではないけれども, ほんの一部分の問題だけが大切な要点であると考えるべきではない, 洞山禅師は説法に関するこの様な事情を体を通じて十分に理解されたのである, 良心や善心というものは非常に大切なもので, それがなくては人間ではない, ところが仏教では良心や善心というものが目立って自分の心の中に感じられるうちは, まだまだ本当の自分が出てきていないと言うわけである, 実際生活でいろんな判断をするときに一番正しい現実的な判断とは, 自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なった時に出てくる, と言う事を自分の心の中で考える, ところがあまり良心的にばかり考えると現実に合わなくなる場合もある, 実際には損をしてしまうという問題に出くわす, そういう問題がどうしてもある, 判断する場合, どっちにしようかなあ, と言ってウロウロ, ウロウロ迷う, そうかといって良心にそむくのも気がとがめると言う事で, 何となくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが大体普通の生き方である, 判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る, それはどう言う事かというと, 物事を空にする, という状態が生まれてきた時に初めて, 我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感じる, 問題をどう考えようかと思うとすぐ直観的にパッと答えが出てくる, 悪玉がなくなった状態の時には, すぐ直観的にパッと答えが出てくる, つづく, そういう二つに分れた考え方がなくなった時には決断が非常に早い, 頭の中で良心を基準にして考えるという事もなくなったし, ただ損得だけを基準にした考え方もしなくなった, ところが心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと, たいていの場合は良心だけに従っていてはとても飯が食っていけない, 良心に従いたいんだけれども実際に従うと損をしてしまう, 良心と悪心とが別々にあるうちは, 本来はこの様にしなければならないが, その事がどういう点で実際の生活に役立つかというと, 我々は子供の頃から学校で色々と教えられて来ている, 仏道を学ぶ人々はこの事を銘記すべきである, 沢山の事を聞き沢山の事を覚えている事も, この様な形で説法が行われ説法を聞く事が行われる事により, 説法を聞く事から生まれる効果は, 簡単にそれが分かるという性質のものではない, 一切の力, 真実を得られた人々全て, 教団指導者の全て, 正にそのような時点においては, 愚かな人々が心に記憶としてとどめ暫くの間でも忘れないという事は, 釈尊以来代々の祖師方, 真実を得られた方々, によって, 2026年10月08日, その答えとして雲厳禅師が, お前は私の行う説法でさえ聞くことが出来ないのに, どうして無情説法を聞, くことが出来るものか, 釈尊と同じ境地を体験して行く現実の姿を見て雲厳禅師が師匠であり先輩の立場から, 洞山禅師がすでにその真髄を得たという意味で保証したのである, お前は私自身の説法さえ聞かない境地に達している, 洞山禅師がごく平凡な境地にいる人物であったからこの様に言ったのではない, 非常に沢山の種類があるかもしれないけれども, 思慮を巡らしてあれこれと頭の中で考えて聞くべきものではないと言う事を示されたのである, の中における, この様なやり取りと言うものが非常に大切なところである, そしてこの雲厳禅師と洞山禅師との間で行われたやり取りの境地と言うものは, 他の人々が簡単に到達しその内容を知り得るところのものではない, つづき, 我々の判断とは, 色々と長い事考えた末にやっと出てくるものではなくて, 一番最初にどうしたらいいか, と出て来てしまうものである, 直観的で現実的な判断が, 我々の日常生活の基礎であると言うのが釈尊の教えです, この事も我々が日常生活を生きていく上にはかなり大切な事である, という事になる, だから我々が足を組み, 手を組み, 背骨を伸ばして坐っておる時は, 善も悪も無い状態である, 善も悪も無い状態というのは, 極めて現実的な世界に生きている状態なのである, 目の前に見える壁, エアコンの回る音, 外で聞こえる車の警笛など, 極めて単純な世界に我々は生きていると言う事を坐禅をしている時に初めて感ずる, と思い込んでいる, ただ複雑な世界というのは, 頭で考えた世界であって自分が作った世界である, だから本当に現実に生きておる世界とは別なわけです, という問題がある, その点で仏教的な考え方というものは, 今後の時代にかなり役に立つ考え方として我々の日常生活に活きてくる, そう見て間違いないと考えられるわけです, 我々は現実の世界に生きているのだから, 最も現実的な立場で最も現実的な判断を下さなければならん, 坐禅をしていない時には, 色々な考え方を持って色々な事を考えているから, そういう極めて複雑な世界に我々は生きている, その極めて現実的な世界とは, もっと具体的に言えば, 我々の心の中にありがちな善玉と悪玉という二つのものを, 一つに重ねてなくしてしまう修行が坐禅, そういう直観的な正しい判断を生む根源を仏道では智慧と言う, その後で判断が正しいか正しくないか, 色々と材料を寄せ集めて検討する必要がある, 雲厳禅師と洞山禅師との間で行われた問答, 雲厳禅師の言われた言葉の意味は無情説法と言うものには, 雲厳禅師の, お前は私の行う説法でさえ聞くことが出来ない, と言われたのは, これは洞山禅師が体験の真唯中においてなお, 洞山禅師が無情説法について, 自分はそれを聞く耳を持たない, と言われたときに, 2026年10月09日, 自然が行うところの釈尊の説かれた教え, というものが, 頭で理解する事のできないものであるという事は非常に素晴らしいしい事である, 非常に素晴らしい事である, 自然とか自然の行う説法とかと言うものは, いずれも頭の中で考える事の出来るものではないと言う事が分かる, いったいどういうものだと考えたらよいのであろうか, そして, と言う言葉によって表現されるもの, 自然と呼ばれ心理作用に煩わされないものと呼ばれているものは, 凡人とか聖者と言う区別を立てて考える問題ではない, その様な区別の形での無情という意味ではないと学ぶべきである, 心理作用を持っているものと心理作用を持っていないものと言う形で生き物を色分けした場合には, それを言葉で説明した場合にも, 言葉で説明しない場合にも, その両方の場合にあたって, 頭の中で考えた境地というものが, そのような区別を立てた範囲の事柄であるならば考える事が出来るであろう, というものは, 頭で考えられる境地のものではなくて, 非常に素晴らしい状態のものであり, 今後も非常に素晴らしい状態のものであろう, と言うものが到達し得る境地ではない, 人間が頭の中で考えて分かるところの問題と無関係であろう, 今日われわれが人間の頭の働きというものを非常に大切に思っているわけであります, ですから頭の中で考えられないものはこの世の中にないと, こういうふうに大抵の人が思い込んでいるわけであります, そういう頭の働きを非常に大切にする考え方であればこそ, 我々は今日非常に恵まれた文明社会に生きておるという事が言えるわけであります, 電気にしても, 車にしても, その他この世の中で我々が現に恩恵を受けている殆どのものが, 人間のものを考える働きから生まれてきておるわけであります, だという事が言えるわけでありますが, 我々の人生がそういう頭の働きだけのものかというと, それ以外の領域というものがあるわけであります, そういう問題に気がつくか気がつかないかという事が, 人生問題を考えていく上においては非常に大切なことになるわけであります, たまたまその家族の中に不幸があったという風な事態が生まれた場合に, 頭の中でなぜそんなことが起こるかと言う様な事は到底考えきれない, という風な場面が人間にはあるわけであります, そういう場面に直面した時に, 人間の頭の働きの儚さというものに初めて気が付くわけであります, 普段は中々そういう事に気がつかない, こういう問題があるわけであります, というものが我々の人生にはあって, あるいは師匠と弟子との間の相互のやりとりの中にはあって, それが我々の人生の中でかなり大切な役割を果たしているという事がこの, に関する問答に付随しても述べられておるわけであります, とおっしゃった事が気にかかるのですが, と思います, 人間はあるいは人間の命は途轍もなく尊いと言う考え方がある, 人間は単に細胞の塊だと言う考え方がある, いざ現実の生活になってみると, 手が二本あり足が二本あり目が二つある生き物がいて一所懸命働いている, 非常に大きな意味を持っている, それが正しく生きているか正しく生きていないかと言う問題はある, 一生懸命やっているけれども, どうも傍から見ると何のために一生懸命やっているのかよくわからないと言う生き方もある, 大きな基準, に当てはめて, 本当に価値のある正しい生き方をしているか動き方をしているかと言う事, 人間にはこの四通りの見方があると思います, わけです, 値打ちがない, と言い切る事だけが正しくない, そうかと言って, 人間は何をしようと途轍もなく偉いんだ, と言う事にもならない, 何をやるか, と言う事も問題になるだろうし, どう言う事が正しいのか, と言う事も問題になって来る事だと思います, 他のものも何でも, 仏教はそういう四通りの考え方で解釈していく, 四番目, 働いているという事は単に肉体として存在するだけではなくて, 三番目, 二番目, 一番目, 人間というものを考えていく場合に, 四通りの考え方をすべきだ, 先生が人間はそんなに偉いものではない, 西嶋先生にある人が質問した, この雲厳禅師と洞山良价との問答においても, 人間の頭の中で考えきれない場面, ただ悲しくてしょうがない, あるいはもう残念でしょうがない, 一つの例といたしまして大抵の人が家族を持って家族仲良く暮らしている, ですからその点では, 人間のものを考える働きというのは非常に大切な働き, これは西洋の文明の伝統であります, ここで, 人間の頭で考えきれないものという事がしきりに出てくるわけでありますが, 凡人とか聖者とかと人間を色分けした境地での頭の中の働き, 心の働き, ところが今ここで洞山禅師と雲厳禅師との間において交わされた問答, そして我々が凡人と聖者というふうに人間を区分けしたり, 常識的には心のあるもの, 心のないものと言う形で人間を区別し, 生き物を区別するけれども, ここで無情, 心理作用に煩わされないもの, と言われているものは, そこで洞山禅師が詩を作って雲厳禅師に奉って言うには, 2026年10月10日, rss購読, 全エントリー一覧, トップページ, 西嶋先生, が講義された道元禅師著, を勉強してます, 自分の部屋で密やかに坐禅を始めてみませんか,


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正法眼蔵 勉強してます 正法眼蔵 勉強してます 西嶋先生 愚道和夫老師 が講義された道元禅師著 正法眼蔵 を勉強してます 自分の部屋で密やかに坐禅を始めてみませんか トップページ 全エントリー一覧 rss購読 正法眼蔵 無常説法 20 正法眼蔵 50 無情説法 2026年10月10日 土 洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます そこで洞山禅師が詩を作って雲厳禅師に奉って言うには 無情説法 自然が行うところの釈尊の説かれた教え というものが 頭で理解する事のできないものであるという事は非常に素晴らしいしい事である 非常に素晴らしい事である と言われた 自然とか自然の行う説法とかと言うものは いずれも頭の中で考える事の出来るものではないと言う事が分かる ここで無情 心理作用に煩わされないもの と言われているものは いったいどういうものだと考えたらよいのであろうか そして 無情 と言う言葉によって表現されるもの 自然と呼ばれ心理作用に煩わされないものと呼ばれているものは 凡人とか聖者と言う区別を立てて考える問題ではない 常識的には心のあるもの 心のないものと言う形で人間を区別し 生き物を区別するけれども その様な区別の形での無情という意味ではないと学ぶべきである そして我々が凡人と聖者というふうに人間を区分けしたり 心理作用を持っているものと心理作用を持っていないものと言う形で生き物を色分けした場合には それを言葉で説明した場合にも 言葉で説明しない場合にも その両方の場合にあたって 頭の中で考えた境地というものが そのような区別を立てた範囲の事柄であるならば考える事が出来るであろう ところが今ここで洞山禅師と雲厳禅師との間において交わされた問答 というものは 頭で考えられる境地のものではなくて 非常に素晴らしい状態のものであり 今後も非常に素晴らしい状態のものであろう 凡人とか聖者とかと人間を色分けした境地での頭の中の働き 心の働き と言うものが到達し得る境地ではない 人間が頭の中で考えて分かるところの問題と無関係であろう 西嶋先生解説 ここで 人間の頭で考えきれないものという事がしきりに出てくるわけでありますが 今日われわれが人間の頭の働きというものを非常に大切に思っているわけであります ですから頭の中で考えられないものはこの世の中にないと こういうふうに大抵の人が思い込んでいるわけであります これは西洋の文明の伝統であります そういう頭の働きを非常に大切にする考え方であればこそ 我々は今日非常に恵まれた文明社会に生きておるという事が言えるわけであります 電気にしても 車にしても その他この世の中で我々が現に恩恵を受けている殆どのものが 人間のものを考える働きから生まれてきておるわけであります ですからその点では 人間のものを考える働きというのは非常に大切な働き だという事が言えるわけでありますが 我々の人生がそういう頭の働きだけのものかというと それ以外の領域というものがあるわけであります そういう問題に気がつくか気がつかないかという事が 人生問題を考えていく上においては非常に大切なことになるわけであります 一つの例といたしまして大抵の人が家族を持って家族仲良く暮らしている わけでありますが たまたまその家族の中に不幸があったという風な事態が生まれた場合に 頭の中でなぜそんなことが起こるかと言う様な事は到底考えきれない ただ悲しくてしょうがない あるいはもう残念でしょうがない という風な場面が人間にはあるわけであります そういう場面に直面した時に 人間の頭の働きの儚さというものに初めて気が付くわけであります 普段は中々そういう事に気がつかない こういう問題があるわけであります この雲厳禅師と洞山良价との問答においても 人間の頭の中で考えきれない場面 というものが我々の人生にはあって あるいは師匠と弟子との間の相互のやりとりの中にはあって それが我々の人生の中でかなり大切な役割を果たしているという事がこの 無情説法 に関する問答に付随しても述べられておるわけであります 西嶋先生にある人が質問した 質問 先生が人間はそんなに偉いものではない とおっしゃった事が気にかかるのですが 先生 人間というものを考えていく場合に 四通りの考え方をすべきだ と思います 一番目 最初 の考え方は 人間はあるいは人間の命は途轍もなく尊いと言う考え方がある 二番目 の考え方は 人間は単に細胞の塊だと言う考え方がある 三番目 の考え方は いざ現実の生活になってみると 手が二本あり足が二本あり目が二つある生き物がいて一所懸命働いている そうすると 働いているという事は単に肉体として存在するだけではなくて 非常に大きな意味を持っている ただ それが正しく生きているか正しく生きていないかと言う問題はある 一生懸命やっているけれども どうも傍から見ると何のために一生懸命やっているのかよくわからないと言う生き方もある 四番目 の考え方は 大きな基準 法 に当てはめて 本当に価値のある正しい生き方をしているか動き方をしているかと言う事 人間にはこの四通りの見方があると思います 他のものも何でも 仏教はそういう四通りの考え方で解釈していく わけです だから 値打ちがない と言い切る事だけが正しくない そうかと言って 人間は何をしようと途轍もなく偉いんだ と言う事にもならない そうすると 何をやるか と言う事も問題になるだろうし どう言う事が正しいのか と言う事も問題になって来る事だと思います 最後までお読みいただきありがとうございます tweet コメント 0 トラックバック 0 ページ最上部 正法眼蔵 無常説法 19 正法眼蔵 50 無情説法 2026年10月09日 金 洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます 洞山禅師が無情説法について 自分はそれを聞く耳を持たない と言われたときに その答えとして雲厳禅師が お前は私の行う説法でさえ聞くことが出来ないのに どうして無情説法を聞 くことが出来るものか と言われた これは洞山禅師が体験の真唯中においてなお 釈尊と同じ境地を体験して行く現実の姿を見て雲厳禅師が師匠であり先輩の立場から 洞山禅師がすでにその真髄を得たという意味で保証したのである 雲厳禅師の お前は私の行う説法でさえ聞くことが出来ない と言われたのは お前は私自身の説法さえ聞かない境地に達している と 洞山禅師がごく平凡な境地にいる人物であったからこの様に言ったのではない 雲厳禅師の言われた言葉の意味は無情説法と言うものには 非常に沢山の種類があるかもしれないけれども 思慮を巡らしてあれこれと頭の中で考えて聞くべきものではないと言う事を示されたのである 雲厳禅師と洞山禅師との間で行われた問答 の中における この様なやり取りと言うものが非常に大切なところである そしてこの雲厳禅師と洞山禅師との間で行われたやり取りの境地と言うものは 他の人々が簡単に到達しその内容を知り得るところのものではない 西嶋先生の話 つづき 勿論 その後で判断が正しいか正しくないか 色々と材料を寄せ集めて検討する必要がある けれども 我々の判断とは 色々と長い事考えた末にやっと出てくるものではなくて 一番最初にどうしたらいいか パッ と出て来てしまうものである そういう直観的な正しい判断を生む根源を仏道では智慧と言う 直観的で現実的な判断が 我々の日常生活の基礎であると言うのが釈尊の教えです この事も我々が日常生活を生きていく上にはかなり大切な事である 我々の心の中にありがちな善玉と悪玉という二つのものを 一つに重ねてなくしてしまう修行が坐禅 という事になる だから我々が足を組み 手を組み 背骨を伸ばして坐っておる時は 善も悪も無い状態である 善も悪も無い状態というのは 極めて現実的な世界に生きている状態なのである その極めて現実的な世界とは もっと具体的に言えば 目の前に見える壁 柱 エアコンの回る音 外で聞こえる車の警笛など 極めて単純な世界に我々は生きていると言う事を坐禅をしている時に初めて感ずる 坐禅をしていない時には 色々な考え方を持って色々な事を考えているから そういう極めて複雑な世界に我々は生きている と思い込んでいる ただ複雑な世界というのは 頭で考えた世界であって自分が作った世界である だから本当に現実に生きておる世界とは別なわけです 我々は現実の世界に生きているのだから 最も現実的な立場で最も現実的な判断を下さなければならん という問題がある その点で仏教的な考え方というものは 今後の時代にかなり役に立つ考え方として我々の日常生活に活きてくる そう見て間違いないと考えられるわけです 最後までお読みいただきありがとうございます tweet コメント 0 トラックバック 0 ページ最上部 正法眼蔵 無常説法 18 正法眼蔵 50 無情説法 2026年10月08日 木 洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます 釈尊以来代々の祖師方 真実を得られた方々 によって 代々正しく伝えられてきた教えを身につけている人が正しい師匠である 愚かな人々が心に記憶としてとどめ暫くの間でも忘れないという事は 説法を聞くという効果が多少ではあるけれども 心に説法の効果というものが行きわたって感じられる時期だという事が言える 正にそのような時点においては 体全体 過去における体全体 心全体 過去における心全体 心の今後における全て一切の直接原因 一切の間接原因 一切の果報 一切の人間の行い 一切の外見 一切の本質 一切の実体 一切の力 真実を得られた人々全て 教団指導者の全て 主観客観の全て 皮 肉 骨 髄という一切のものに亘って 法を聞いた功徳が具わっている 説法の一切 日常生活 行住坐臥 の一切が具体的に現れ 天地一杯にみなぎった状態であるという事が言える 説法を聞く事から生まれる効果は 簡単にそれが分かるという性質のものではない けれども 釈尊の教えを身につけた方の説法の席に参加して 釈尊の説かれた教えの皮 肉 骨 髄を参究した場合 説法が持っている力や影響力が聞く人々に影響を与えない時期はないのであって 説法を聞く事に伴う宇宙秩序 釈尊の教え の影響力が効果を及ばないところはある筈がない この様な形で説法が行われ説法を聞く事が行われる事により ある場合には一瞬のうちに過ぎてしまうとか ある場合には永遠に近い様な長期にわたって 結果が現実のものとなる事態を見聞きするのである 沢山の事を聞き沢山の事を覚えている事も 強いて投げ捨てるべきではないけれども ほんの一部分の問題だけが大切な要点であると考えるべきではない 仏道を学ぶ人々はこの事を銘記すべきである 洞山禅師は説法に関するこの様な事情を体を通じて十分に理解されたのである 西嶋先生の話 我々は子供の頃から学校で色々と教えられて来ている 良心や善心というものは非常に大切なもので それがなくては人間ではない と ところが仏教では良心や善心というものが目立って自分の心の中に感じられるうちは まだまだ本当の自分が出てきていないと言うわけである その事がどういう点で実際の生活に役立つかというと 実際生活でいろんな判断をするときに一番正しい現実的な判断とは 自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なった時に出てくる 良心と悪心とが別々にあるうちは 本来はこの様にしなければならないが と言う事を自分の心の中で考える ところがあまり良心的にばかり考えると現実に合わなくなる場合もある 実際には損をしてしまうという問題に出くわす そうすると 良心に従いたいんだけれども実際に従うと損をしてしまう そういう問題がどうしてもある そうすると 判断する場合 どっちにしようかなあ と言ってウロウロ ウロウロ迷う たいていの場合は良心だけに従っていてはとても飯が食っていけない そうかといって良心にそむくのも気がとがめると言う事で 何となくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが大体普通の生き方である ところが心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと 判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る それはどう言う事かというと 物事を空にする 頭の中で良心を基準にして考えるという事もなくなったし ただ損得だけを基準にした考え方もしなくなった という状態が生まれてきた時に初めて 我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感じる そういう二つに分れた考え方がなくなった時には決断が非常に早い 問題をどう考えようかと思うとすぐ直観的にパッと答えが出てくる 善玉 悪玉がなくなった状態の時には すぐ直観的にパッと答えが出てくる つづく 最後までお読みいただきありがとうございます tweet コメント 0 トラックバック 0 ページ最上部 正法眼蔵 無情説法 17 正法眼蔵 50 無情説法 2026年10月07日 水 洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます 説法を聞く事の効果と言うものは 体とか心と言う土壌に種を蒔く形になって その蒔かれた種が腐って無駄になってしまうという時期は決してない 結局その種が蒔かれてそれが成長し 時間が経つと共に伸びていって結果をもたらすと言う事が例外なしに行われるのである ところが愚かな人々が考えるには 仮に釈尊の教えを説法の形で聞いたとしても どう理解していったらいいかという方法に進歩がなく 聞いたことをしっかり覚えておくだけの力がないならば その利益はないと考える そして体や心を総動員して 広範囲に記憶し説法をたくさん聞く事こそまさに最も大切な事だと考えている 説法を聞いてもすぐに忘れてしまい 説法が終わってすぐ席を立とうとすると たちまち何が何だかよくわからなくなってしまう事があった場合に その様な形で説法を聞いたとしても 仏道を学ぶ上においてどのような効果があるのかと主張するならば その様な主張は正しい師匠に出会っていないところから生まれてくるのである 釈尊以来代々の祖師方によって伝えられきた正しい教えを 師匠と弟子との間で一対一の形で受け継いでおらない人の事を 正しい師匠ではないというふうにいうのである 西嶋先生の話 釈尊の四諦の教え 苦 集 滅 道 は仏教の大切な考え方として何回も説かれています 諦 は訓で読むと あきらめる です あきらめる は断念すると言う意味ではなくて 明らかにすると言う 意味です 仏教ではこの世の中を考えていく場合に 四段階の考え方でいくべきだという主張があります それが四諦論の意味です 1 苦諦の考え方 人間が誰でも最初に持つ考え方 で ああしたい こうしたい ああしなければならない その反対に ああしたくない こうしたくない と言う理想や願望を基準とした考え方 その結果 頭で考えた理想を求め一所懸命やると現実にぶつかって傷つく 2 集諦の考え方 この世の中は物質的な物の集まりで 原子とか分子とかと言う細かい微粒子の集まりで出来上がっている と言う考え方 だから原因結果の関係の集積に縛られている 人間が良心的に努力すると言う事よりも現実がどうなっているかと言う現実そのものを見る という点では優れているけれども 人間の努力と言うものにあまり信頼を置かない その結果 どうせ駄目だからと諦めてしまって生きている張り合いがなくなってしまう 3 滅諦の考え方 釈尊は1 苦諦 2 集諦の考え方では人間は幸福を感じ得ない と言う事に気付かれた 理想を追求しながら しかも現実と調和して行く生き方が何処かにないかと修行し苦心された その結果 釈尊が説かれた事はものを考えると言う事 あるいは物質的に色々なものを受け入れると言う事よりも 人間が生きがいを感じ人生に意味をもたらすものは 何をするか どういう行動をするかと言う事が大切という事に 気付かれた 4 道諦の考え方 行動はそれがまずければ自分自身が被害をうける また人に被害を与えると言う事もある 実際に行動するという事は簡単なようで難しい 実際に日常生活で積極的に行動しながら しかも自分が傷つかないで 他人にも傷を与えないと言う生き方 はどうしたらいいのかと言う問題になる 釈尊が説かれた事は 人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動は自分自身をも傷つけないし 人にも迷惑を与えないと言う事 それはなぜかというと我々は法と言う現実の世界の中にいきている だからその法の世界を支配している原則を自分自身が身につけて その原則に従って生きるならば 自分も満足するし人にも迷惑をかけないで 自分にも他人にも幸福を与える事が出来る 釈尊は人間が幸福になるためには 自分の本来の状態に戻らなければならない と言う事を悟られて その自分の本来の状態に戻る修行法として坐禅と言う事を考えられた 最後までお読みいただきありがとうございます tweet コメント 0 トラックバック 0 ページ最上部 正法眼蔵 無情説法 16 正法眼蔵 50 無情説法 2026年10月06日 火 洞山良价禅師と雲厳曇晟禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます およそ説法を聞くという事は耳と言う感覚器官で聞くだけの問題ではない あるいは耳を通じて音を聞き取る能力だけを問題にして説法を聞くと言う事ではない 父母のまだ生まれていない以前 あるいはこの世の中に最初の仏が出現する以前の無限の過去から無限の未来に至るまで 心のすべて 体のすべて 真実のすべてを尽くして説法を聞くのである それは現在の瞬間の直前において聞く場面もあれば 現在の瞬間の直後において聞く場面も存在する つまり現在の瞬間の前後にわたって説法を聞く事が行われるのである これらの説法を聞く事態がいずれもその説法に伴う利益を伴うのである 心 意識 に伝わって来て わかった わからないという問題がないならば 説法は聞いても役に立たないと主張すべきではない 西嶋先生解説 我々は常識的には わかったわからんかによって説法の価値は決まると考える わけでありますが たまたま何らかの機縁で仏道の教えを聞きたいという決心をして 説法の行われる場所に坐っているという事自体が その人々にとって絶対の意味をもっておる そういうことを主張しておられるわけであります ですから声が聞こえていって その意味が分かる わからないの問題以前に 説法はあるんだし法を聞くという問題はあるんだと こういうことを言われているわけであります 本文に戻ります 体が失われ心が失われたという状態でも 説法を聞くことによって利益を得る という事はあるのである 心が何処かへ行ってしまっていて 我が身がどこにあるのかわからないと言う状態でも説法を聞く事はあり得るし それによって利益を得ることもあり得る それは単に凡人だけがそういう状態なのではなくて 諸仏 真実を得られた祖師方 と言えども 例外なしにこの様な時期を経過した後に仏になり祖となるのである 釈尊の説かれた教えの力を体で受け取り心で受け取る事態というものは その意味を凡人が頭の中で想像してみても どうしてそのすべてが分かると言う事があり得よう 我々の体や心を振り返ってみても その限界というものがどこにあって 体がどういうものであり心がどういうものであるかという事さえ 我々自身が捉える事ができないのが日常生活における現実の事態である 自分自身の体や心でさえ捉える事が出来ないのが我々の日常における現実の事態である 西嶋先生の話 各人だれでも 一日一日どう過ごすかによって各人の人生が決まると言う事は疑問の余地のない ところです ただ自分がどういう事をしたらいいのかと言う事がハッキリしないままに 不安に駆られたり腹を立てたり 愚痴を唱えたりと言う事で何となく時間がつぶれてしまって 数十年経ってしまうという場合も決して少なくはない そうすると我々が人生をよく送るためには 自分自身が気持ちを落ちつけ体を落ちつけて 毎日何をしたらいいかと言う事が理屈でなしに分かると言う事が大切な事になります その点では坐禅というものは 例え話で言ってみればコップの中に水を入れてその中に灰を入れたとする それを割り箸でかき回していると水はいつまでも濁っている しかしかき回すのを止めて五分か十分も置いておけば 灰は下の方に沈んで水が透明になる つまり 坐禅 とは何かというとかき回す事を止める と言う事です 普段 我々は自分自身で心や体をかき回しているから 不安があったり 落ち着かなかったり あるいは腹が立つたり 愚痴が出たりと言う事になるわけです だけれども かき回す事をやめれば自然に静かになってくる だから坐禅と言うのは そういう点では心や体をかき回す事を止めると言う事 そういう形で毎日自分と睨み合っておれば 毎日何をしたらいいかと言う事がはっきりわかる そしてそう言う事の積み重ねが自分自身の人生を一番いい結果に導く そう言う事にもなろうかと思うわけです 人間が一生を賭けてどう言う事をやるかと言う事の一つの基準としては 自分自身を見失わない様にして 自分自身が毎日何をやったらいいかと言う事を常に捉えておる事がかなり大事なのではなかろうか とそう言うふうに感ずる訳です 最後までお読みいただきありがとうございます tweet コメント 0 トラックバック 0 ページ最上部 前のページ 次のページ フリーエリア 正法眼蔵 は仏道を勉強する上において なぜ坐禅をやらなければならないか という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる だから 正法眼蔵 を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば 仏道修行においては欠けているところはない 愚道和夫老師 プロフィール author 幽村芳春 70代女性 自営業 自宅で毎日朝晩坐禅をして 愚道和夫老師が講義された道元禅師著 正法眼蔵 を毎日ブログで紹介しています 愚道和夫老師より平成13年 授戒 平成20年 嗣書 最近の記事 正法眼蔵 無常説法 20 10 10 正法眼蔵 無常説法 19 10 09 正法眼蔵 無常説法 18 10 08 カテゴリ 道元禅師略歴 1 西嶋先生略歴 1 インタ ネットと坐禅 1 一人坐禅のやり方 2 正法眼蔵 1430 1 弁道話 43 2 摩訶般若波羅蜜 18 3 現成公案 21 4 一顆明珠 12 5 重雲堂式 1 6 即心是仏 16 7 洗浄 8 8 礼拝得髄 26 9 谿声山色 26 10 諸悪莫作 25 11 有時 23 12 山水経 39 13 仏祖 4 14 法華転法華 41 15 心不可得 前 10 16 心不可得 後 31 17 古鏡 65 18 看経 32 19 仏性 91 20 行仏威儀 59 21 仏教 39 22 神通 39 23 大悟 24 24 坐禅箴 51 25 仏向上事 33 26 恁麼 27 27 行持 上 63 28 行持 下 64 29 海印三昧 30 30 授記 39 31 観音 27 32 栢樹子 19 33 光明 19 34 身心学道 31 35 夢中説夢 24 36 道得 14 37 画餅 19 38 全機 9 39 都機 14 40 空華 32 41 古仏心 14 42 菩提薩埵四摂法 14 43 葛藤 18 44 三界唯心 19 45 説心説性 18 46 仏道 40 47 諸法実相 33 48 密語 17 49 仏経 29 50 無情説法 20 51 法性 0 52 陀羅尼 0 53 洗面 0 54 面授 0 55 坐禅儀 0 58 梅華 0 59 十方 0 60 見仏 0 61 徧参 0 62 眼睛 0 63 家常 0 64 龍吟 0 65 春秋 0 66 祖師西来意 0 67 優曇華 0 68 発無上心 0 69 発菩提心 0 70 如来全身 0 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