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ギリシャ王国, 目次, ヴィッテルスバッハ家の時代, グリュックスブルク家の時代, 関連項目, 脚注, 参考文献, 始まり, 行政, 軍事分野, 財政, 経済, 迷走するギリシャ, 1843年, コレッティスの独走とクリミア戦争, オソン1世の迷走, バルカン戦争と第一次世界大戦, 第二共和制の成立, 第二次世界大戦前, 第二次世界大戦後, 軍事政権, 注釈, 出典,
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2005 (38), しかし (27), リチャード (25), クロッグ (24), 2004 (24), そのため (18), スボロノス (17), 1988 (17), ウッドハウス (14), 1997 (14), ギリシャ (11), 1832年 (9), #ギリシャ王国 (8), カステラン (8), 1994 (8), 1944年 (8), 1941年 (8), 1935年 (8), 1924年 (8), isbn (7), 1973年 (7), ゲオルギオス (6), 率いる (6), イギリス (6), この節の (6), が望まれています (6), フランス (6), テッサリア (6), ヴェニゼロス (5), その後 (5), オソン1世 (5), イピロス (5), ただし (5), イオアニス (5), メガリ (5), そして (5), さらに (5), 1834年 (5), ドラクマ (5), 1917年 (5), 328 (4), ドイツ (4), トルコ (4), 1953年 (4), アレクサンドロス (4), 詳細は (4), を参照 (4), 国民急進党 (4), 1967年 (4), 1947年 (4), 八月四日体制 (4), オスマン帝国 (4), 1863年 (4), 1974年 (4), 1922年 (4), 1920年 (4), 1913年 (4), 非表示 (4), サイドバーに移動 (4), コモンズ (3), wikipedia (3), 1994年 (3), 346 (3), 173 (3), 334 (3), 320 (3), 291 (3), エジプト (3), パパドプロス (3), エレフセリオス (3), ギリシャ人 (3), イデア (3), イオニア諸島 (3), ギリシャ軍事政権 (3), 軍事政権 (3), 1964年 (3), ギリシャは (3), ギリシャ内戦 (3), イタリア (3), ギリシャ第二共和政 (3), このため (3), マケドニア (3), ゲオルギオス1世 (3), デンマーク (3), 1843年 (3), 1833年 (3), フォン (3), により (3), ギリシャ独立戦争 (3), ギリシア語 (3), 1936年 (3), ギリシャ国 (3), 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矢田俊隆編, 東欧史, 1977年, 41130, 世界各国史13, ジョルジュ, カステラン著, 山口俊章訳, サイマル出版会, 377, 11015, 歴史と現在, ギリシア史, 2005年, 41470, 桜井万里子, 周藤芳幸, 村田奈々子共著, ギリシアを知る辞典, 東京堂出版, 2000年, 490, 10523, クロッグ著, 高久暁訳, ギリシャの歴史, 創土社, 2004年, 789, 30021, 179, 175, 172, 169, 168, 167, 166, 344, 161, 160, 342, 164, 335, ギリシャ軍も独, 伊に降伏, 朝日新聞, 昭和16年4月24日, p388, 独軍がアテエ入城, ギリシャ軍捕虜三十万, 東京日日新聞, 昭和16年4月25日, p389, 330, 324, 322, 319, 307, 305, 302, 300, 298, 295, 122, 223, 222, 220, 219, 218, 293, 163, 216, 215, 119, 118, 214, 210, 211, 117, 121, 116, 115, 288, 209, 112, 113, ギリシャ軍内部に, 体制の樹立を謀っていた, アスピダ, という秘密組織が存在しており, そのリーダーがパパンドレウの息子アンドレアスであるというciaによってでっち上げられた事件, ナセル, キプロスはギリシャに併合するが, トルコ人の自治州を形成し, そこにトルコ軍基地を配置する, その代わりにカステルリゾ島をトルコに割譲するという案, 左派が躍進したことにより, 右派連合が共産主義の台頭を恐れ, その他の反共産主義組織を動員して選挙妨害を大規模に展開, さらに得票集計の不正操作まで行われたため, こう呼ばれる, この中には後の独裁者, も参加していた, これは政局が混乱していことだけでなく, キプロス島事件の際に, natoがギリシャを支援しなかったため, ギリシャ国民はそれに怒りを抱いていた, 左派はそこに巧みに受け入れ, 勢力を伸ばした, ギリシャ人の多くがアメリカや, などへ移住, 彼らは, ガストアルバイター, として働き, 本国へ送金していたが, これらはギリシャを支えるものであった, そして船舶の税金も安く押さえられたため, の多くがギリシャ船籍であり, ギリシャの海運業は世界最大規模であった, 便宜置籍船, カナダ, オーストリア, これまでギリシャはアメリカより百億ドルを受け取っていたが, に変更しないと援助を縮小すると警告した, 小選挙区制, 比例代表制, 国民進歩同盟, の息子, 自由党, パパンドレウ党, ソフォクリス, プラスティラス, の三国で, が結ばれるまでの良好な関係に至ったが, すぐに解消された, これはキプロス島をめぐって, において, 暴徒が襲ったため, ギリシャとトルコの関係が悪化したためであり, ユーゴスラビアとギリシャが仲たがいをしたわけではない, トルコ人, イスタンブール, バルカン三国同盟, ユーゴスラビア, この憲法改正により, 人権に関する規定が強化され, 議会改革, 初等教育の義務化, 農地改革のための土地収用の可能化などが規定された, マケドニアはユダヤ, スラヴ, アルバニア, ヴラビ, ロマらが19世紀から20世紀初頭にかけて共生していたが, 民族主義的観念が発展するに従い, 各民族が領有を主張する係争地と化していた, アマーリア夫妻の間に男児がいなかったことも関係しており, 後継者が居た場合は別の事態が発生していた可能性があると多くの識者の意見がある, さらに憲法には王位継承者はギリシャ正教徒であることを規定していたが, オソン1世とその兄弟らはカトリック教徒のままであった, 当時のギリシャでは復活祭の時にキリストを裏切ったユダの肖像を焼くという慣行が行なわれていた, ロスチャイルド家の一員がアテネを訪問した時, 多額の借款を得る事を期待したためにこの慣行が中止された, ギリシャ人らはその代わりにユダヤ系イギリス人であるドン, パシフィコの家を略奪した事件, 女性に選挙権が認められたのは1952年, この国民議会には当時, オスマン帝国領土であったテッサリア, マケドニアの代議士らも参加していた, カステランによれば1842年, オソン1世がカトリック教徒であったため, オソンをギリシャ正教へ改宗させるか, 退位させるかしようとした陰謀, これはバルカン半島各地やオスマン帝国各地に分散していた相当数のギリシャ人らが帰国したもので自然増で増加したものではない, スロボノスによれば6千万フランとされている, 後にオスマン帝国はこの教育が, 回復されざる, ギリシャ人に対するプロパガンダ活動と見做し, 19世紀末に制限を加えた, 初期においては教授の多くがドイツ人であり, を学術的な用語に変化させて民衆が使う, デモティック, から引き離れたものにしたという問題も生まれた, 列強によって定められたギリシャの独立に関する協定には憲法制定が規定されていた, これは独立後も変わらず, イギリス派, はコンスタンティノープル出身のファナリオット, を中心としており, イギリスに習ってギリシャの近代国家化を目指しながらも立憲君主制を否定する反オソン1世派, ギリシャの失地回復運動, 実現を夢見る, を指導者とした立憲君主派, ロシア派, は自らをギリシャ大統領, の後継者であるとしており, を指導者としてをキリスト教との関係を中心にしてロシアとの友好関係を強調してオスマン帝国との対決を目指すペロポネソス半島を根拠地とする保守派, と一応色分けされ各国のアテネ駐在大使らと緊密な関係を保っていたが, 場合によっては党派を移動するなどその位置は流動的であった, テオドロス, コロコトロニス, ハイデックはギリシャ独立戦争に参加しており, 終戦後, ナフプリオの守備隊長としてギリシャ初代大統領イオアニス, カポディストリアスに使えた人物であった, ギリシャ非正規軍には否定的な意見を持っており, バイエルン人を主幹とする新正規軍の形成を考えていた, 全体で5万平方km, 人口は約80万人であったが, の住む最大の都市は, 第二が, さらに当時, 保護下であった, には160万人のギリシャ人が住んでおり, 必ずしも大多数のギリシャ人らが新生ギリシャ王国に集まっていたわけではなかった, アドリアノープル, この協定が, に廃止されるまで列強国の干渉は続いた, 正式に廃止されたのは1973年に行なわれた国民投票による, 脚注の使い方, ギリシャ王家の紋章, ギリシャの首相, ギリシャの大統領, ギリシャ国王の一覧, 国王は偽りの文民政府を承認したが, 1967年12月, 逆クーデターを仕掛け事態の収拾を狙った, しかし素人じみたその行動は軍によってすぐさま鎮圧され, 国王はローマへ亡命した, 103, このクーデターは中道連合の勝利が確実視されたためであったが, 軍首脳, 労働組合, 政党全てが虚を突かれた状態であり, が権力を掌握することとなった, カネプロスはこれを拒否するよう請願したが, 国王はクーデターの首謀者スティリアノス, パッタコス准将, マカレゾス大佐らによって形成された元検事長コリアスを首班とする偽りの文民政府を已む無く承認した, ギリシャ陸軍, パパンドレウは国内で改革を進め, 教育改革や東側諸国との関係改善, 内戦中より獄中にあったものの釈放などを行い, 経済関連では息子アンドレアスを閣僚に取り立て, 辣腕を振るわせていた, パパンドレウによる緩やかなインフレ経済政策は国内の特権階級には不安視されており, さらに軍内にもパパンドレウ政府を左翼的であるとして危険視していた, アメリカは警戒を強め, さらに右派連合は, アスピダ事件, を利用して中道政権へ攻撃を開始した, は国王の権限問題を背景にしてこれに介入, 7月にパパンドレウは辞任した, これに民衆はデモを開始, 70日間運動, もしくは, 国王一揆, と呼ばれることとなる, 首相にコスティス, ステファノプロスが任命されたが, 政局の混乱と国内の不安定さを収めることはできなかった, ステファノプロスは, 党首パナヨティス, カネプロスと合意して, 総選挙を行うことを決定, 超党派の選挙管理内閣が取り仕切ることとなったが, パパンドレウの問題で内閣は崩壊した, 国王はカネプロスに選挙を託したが, その数日後の1967年4月21日, 下級将校グループによるクーデターが発生した, 100, 1965年, コンスタンディノス2世, パパンドレウは政権を得たが, キプロスでは危機が迫っており, 1960年のキプロス協定に定められていた三国による共同統治が崩壊し, キプロス大主教であり大統領であった, はトルコ人の権利縮小を求めたがこれをトルコ政府が拒否, ギリシャ人とトルコ人の間で1960年12月末から激しい戦いが始まり, トルコがキプロスに介入する危機が迫っていた, これは1964年に, の強硬発言により回避されたが, 国連の, が介入, 不安定な平和がキプロスに訪れた, これ以降, キプロスではトルコ人, ギリシャ人の住み分けが強制的に行われ, 二重の統一案, が提示されたが, これをパパンドレウは拒否, アメリカの不興を買うこととなった, 平和維持軍, マカリオス, ギリシャ大使へ語る, アメリカは象だがキプロスはノミにすぎない, ギリシャもノミである, この二匹のノミがいつまでも象を痒くさせるならば, ノミは鼻でたたかれるだろう, それも激しく, これらの所作にも拘らず, 中道連合が第二党に躍進, 指導者ゲルギオス, パパンドレウは民主的な選挙を求め, 弛まない闘争, を宣言, 左翼民主連合の指導者, が暗殺され政局は悪化の一途をたどっていた, さらに1963年11月の選挙では中道連合が勝利を収め, パパンドレウが組閣, 2月に再選挙が行われ, パパンドレウ率いる中道連合は安定多数を得て政権確保に成功した, 右派のカラマンリスは王室, 特にドイツ生まれの, 王妃と対立, 1963年12月亡命した, フレデリキ, グリゴリス, ランブラキス, それまで内政には問題を持っていなかったカラマンリスであったが, 選挙を1961年に行うことを決定すると風向きが変わり, 中道諸政党が統一され, 中央同盟, が結成された, これは雑多な主義が混合しており, やがて解散することになるが, 1961年の選挙では, 民主左翼連盟, を追いやることに成功した, しかしこの選挙は, 暴力と欺瞞の選挙, と呼ばれる悪名高いものと化した, パパゴスが死去すると, が首相に任命され, 総選挙が行われ中道と左派が結成した, 民主連合, が48, 得票し, 与党である, が改組された, を上回ったにも拘, かかわ, が過半数を得ることになった, 安定多数を得たカラマンリスは首相に在任した1963年までに国民所得の倍増など, 経済の安定化に成功していたが, 1958年の選挙では, は得票数が前回を下回ったにも拘らず, 過半数を取得したが, 左派が第二党に躍進していた, カラマンリスはキプロスのために東奔西走したが, 結局キプロスがギリシャへ併合されることはなく, に所属する共和国として独立, トルコが小規模な部隊をおくることにより, これを保障することとなった, イギリス連邦, 1956年, コンスタンディノス, カラマンリス, における人口9割を占めていたギリシャ人は元々ギリシャ本土への編入を強く求めていたが, キプロス島は, によって統治されていた, そのイギリスはキプロスを手放す気はなかったが, キプロスにおいてギリシャ系のキプロス解放民族組織, eoka, による活動が開始されたことから, これに対抗するためにトルコへこの紛争に対し利害関係を主張するよう促した結果, イスタンブールで暴動が発生してしまいギリシャ人コミュニティが衰退することとなった, これらのことから, トルコ政府はギリシャへの併合を認めず, 分割を主張するようになった, キプロス島, パパゴスは第二次世界大戦以来の経済的混乱に決着をつけることに成功, や同時に行われた通貨管理政策などの, 抑制も功を奏し1960年代には経済発展が始まりつつあった, インフレ, 平価切下げ, 内戦終了後の1950年2月, ギリシャにおいて, 以来続いていた, が解除, 1950年3月, 比例代表に基づいた総選挙が行われツァルダス率いる人民党がなんとか第一党になったが, 中道諸派の三派連合勢力, に政権が委ねられた, 安定多数を保持しておらず, ギリシャ政局は不安定と化し, 1951年9月, 総選挙が行われ, 右派勢力を結集した, が第一党に躍り出たため, 政局の流動化が促進された, アメリカは右派での安定を望んだため, これに介入, 1952年11月16日に総選挙が行われ, パパゴスが政権を担うこととなった, パパゴス, 戒厳令, に参加, 9月には, nato, にも加盟, にアメリカ軍の基地が構築されることとなった, アメリカ軍はギリシャへ介入するに当たり, ギリシャで強い影響力を持った, を足がかりにしており, ギリシャ軍は民衆や政府にではなく, 王へ忠誠を誓っていた, 共産主義者の監視を行う目的で, が設立され, の全面的バックアップを受けた上で広範囲にパイプをめぐらせ, 共産主義者の監視を行った, このように戦後ギリシャにおける政策運営は社会の再構築に向かわずに共産主義の打倒へ向かっていた, cia, ギリシャ諜報機関, ギリシャ軍, 北大西洋条約機構, 1951年, 朝鮮戦争, で枢軸軍に占領され, 多大な損害を負ったギリシャは枢軸軍の占領が終了し, 解放された後も長い, を経験することとなった, 内戦により, 両陣営は残虐な行為でお互いを傷つけあい, 反共産主義者の争いと化し, ただでさえ欠乏していた物資は共産主義者を封じこむために使用され, 他の国では経済復興に使用された, の援助もギリシャでは軍備に使用された, その結果, 内戦終了後, と並んで, 東部におけるアメリカ合衆国の要と化し, を押さえていた, と対峙することとなった, アメリカ合衆国はギリシャの内戦に介入以降, 政治にも介入し, 官僚や軍首脳の人事にも介入し続けた, ソビエト連邦, ルーマニア, 地中海, アメリカ, 共産主義者, 第二次世界大戦, キプロス紛争, ブルガリアの枢軸国三箇国によって分割占領されることとなり, 苦難の日々を迎えることとなった, 1941年4月23日, ドイツ軍はアテネに入城, ゲオルギオス2世国王はクレタ島某地への, を発表した, コリジスの後を継いだ首相ツデロスらはクレタ島へ避難した, そのクレタ島もドイツ軍の攻撃を受け, ツデロスらはカイロへ亡命することとなった, メタクサスはイギリスに支援を求めた上でイタリア軍を押し戻し, 一時的にはアルバニアまで逆に攻め込んだ, ユーゴスラビアにおけるクーデターにより, ユーゴスラビアが枢軸国側から離れようとしたため, ドイツはこれを占領することを決定, 枢軸軍はユーゴスラビアを占領し, ギリシャへ攻め込むこととなった, その最中, メタクサスは病死, 後を継いだ, も混乱の中, 自決した, コリジス, メタクサスはドイツと接近しながらもイギリスとの友好関係も続け, 戦争の影の忍び寄るヨーロッパの中で中立を守るべく行動していたが, によるアルバニア占領以降, 枢軸軍への参加を呼びかけられ, さらにイタリアは最終通告を行いギリシャに脅しをかけた, 1940年10月28日, メタクサスはこれを拒否, ここにイタリア軍によるギリシャ侵攻が開始された, この不安定な政局のために, 国王ゲオルギオス2世は極右政党の党首であったイオアニス, メタクサスを首相に任命, この政局の打開を図った, メタクサスは議会を無視して強引な政治運営を行い, 労働運動に対しても弾圧を行い, さらに共産党がゼネストを企てたことから1936年8月4日, クーデターを敢行, メタクサスによる独裁体制が確立した, メタクサスはファシズム的政治運営を行ったが, 決してファシストではなく, 農民の借金に対するモラトリアムを導入, 第一農民, 第一労働者, と名乗りポピュリスト的な運営を行った, 民衆たちはこれに賛同はしなかったが, 否定もせずにすごした, 唯一の混乱はヴェニゼロスの故郷, クレタ島で発生した暴動であったが, これもすぐに戒厳令が敷かれたことにより鎮圧された, 1922年9月プラスティラスのクーデターにより, コンスタンディノス1世は退位, ゲオルギオス2世が即位したが, 1924年4月の国民投票により王制の廃止が決定, 共和政への移行が決定され, すぐに亡命せざるを得なかった, 国内ではヴェニゼロス派, 反ヴェニゼロス派による争いが発生が続くこととなり, 1934年5月にはヴェニゼロスは亡命に追い込まれ, 新首相ツァルダリスの元, 王制復活が決定された, 復位したゲオルギオス2世は議会選挙を1935年6月, 1936年1月の2度行ったが, ヴェニゼロス派, 反ヴェニゼロス派らの議席が拮抗, がキャスティングボートと化した, 共産党, も参照, 第二次世界大戦時のギリシャ, この敗北により, 再びヴェニゼロス派の勢いが増すこととなり, ヴェニゼロス派のニコラオス, プラスティラスがクーデターを行うことにより国王コンスタンディノス2世は退位, トルコでの敗北の責任を取って, 6名が処刑された, 1924年4月, ヴェニゼロス派は王制の信を問う国民選挙を開始, 国内での王党派, ヴェニゼロス派の対立に決着を狙ったが, これは見事にヴェニゼロス派の思惑通り, 王制廃止, 共和政移行が決定された, セーブル条約で得た小アジアの領土は1923年7月に結ばれたローザンヌ条約により失われたが, ドデカネス諸島を除くエーゲ海の島嶼を得ることとなり, キリスト教徒はギリシャへ, イスラム教徒はトルコへそれぞれ移動することとなった, トルコ間で住民交換を行い, 小アジアではギリシャ人のポンドス共和国, クルド人によるクルド国家などトルコの少数民族が自らの国家設立を企んだ活動をしていたが, これを危機としたトルコ人およびムスタファ, ケマルらはアンカラで革命政権を樹立, 各地の分離活動の鎮圧に消極的なオスマン帝国に変わり活動を開始した, ギリシャ軍は小アジアの各地を占領してはいたが, 革命政権はこれに反撃, 1923年9月までにギリシャ軍は追い出されることとなった, ヴェニゼロスはパリ講和会議に参加すると小アジア西部, トラキア東部, イピロス北部の要求をおこなったが, イタリア軍がアンタルヤに上陸したため, 1919年5月, ギリシャ軍も小アジアへ上陸, このため翌年のセーブル条約でイズミルを含む小アジア西部のギリシャ割譲を得たがギリシャ軍はセーブル条約で規定されて箇所を越え, さらなる領土拡大を目指していた, ヴェニゼロスは選挙で破れ, コンスタンディノス1世による親政により, ヴェニゼロス派が政府要員から追い出されていたが, この方針は維持した, 連合軍はテッサロニキへ上陸し, エーゲ海北岸を占領, 崩壊したセルビア軍支援のための圧力をかけており, さらにブルガリア軍はギリシャ領であったマケドニアに侵攻, カヴァラも占領された, この事態に至って, ヴェニゼロスはテッサロニキで臨時政府の樹立を宣言, ギリシャは二分割されることとなった, ここで激しい戦闘が行われたが, 1917年6月, 国王コンスタンディノス1世が亡命, ヴェニゼロスはアテネへ戻り, 議会の再召集を行い国王支持者追放, さらに基盤を固めたが, これにより, ヴェニゼロス派と国王派との対立は和解構築が不可能な状況に追い込まれていた, ギリシャ議会は中央同盟側との国交断絶と宣戦布告を決定, これによりバルカン戦線は連合側に有利に働き, 第一次世界大戦は連合側の勝利で終了, ギリシャは戦勝国となった, オスマン帝国が, 側に参戦したことにより, イギリスはアナトリアの西海岸を与えることを約束してギリシャへの参戦を促したが, イオニアス, メタクサスを中心とする親ドイツ派の軍幹部, 国王らが反対したためヴェニゼロスは辞任して選挙を行い, これに勝利した上で再度, 首相に着任したが, このときは参戦しなかった, 10月, ブルガリアが中央同盟側で参戦すると連合国はギリシャへ参戦の圧力をかけ始めた, 議会はセルビア支援の決議を行ったが, 国王はこれに反対, ヴェニゼロスは解任された, 中央同盟国, が勃発することにより, ギリシャは複雑な関係に巻き込まれることとなった, 中央同盟側の, はギリシャ王コンスタンデイノス1世の義兄にあたること, 中央同盟国であるオーストリアに敵対するセルビアとバルカン戦争時に相互防衛条約を結んでいること, ギリシャは建国以来, 中央同盟と敵対する三国協商国であるイギリス, ロシアの保護国であったことや, フランスからの借款でギリシャの経済が成り立っていたことなどが存在し, さらにオスマン帝国やブルガリアの立場が不明であったことであった, はオスマン帝国とブルガリアを敵陣営に引き込む可能性が存在することを考え, ギリシャ軍内部にも親ドイツ派が存在していたことからギリシャは中立の方針を採用することとなった, 連合国, ヴィルヘルム2世, ドイツ皇帝, マケドニアを巡る争いは終結しておらず, ギリシャはテッサロニキを巡ってブルガリアと対立, 同じくブルガリアを脅威と考えていたセルビアと相互防衛条約の締結に至った, この直後の1913年6月16日, ブルガリア軍が攻撃を仕掛ける事件が発生, ここに第二次バルカン戦争が開始されることとなったが, ルーマニアとトルコが参戦したため, ブルガリアは降伏, 1913年7月28日にブカレスト講和条約が調印されることとなった, この戦いにより, ギリシャはカヴァラを獲得, トルコ間の戦いもアテネ条約により, 11月1日に終結した, ギリシャは2度のバルカン戦争を通して, 国土は90, 人口が80, 増加したが, 新たに少数民族を抱えた上に, 未回収の地域も存在, さらに戦費の消費による莫大な赤字を抱えることとなった, ヴェニゼロスはこれらの戦争による財政赤字などにより国力が低下したため, 戦争を望んでいなかったが, 1914年6月, サラエボ事件が発生すると, ギリシャも巻き込まれることとなった, マケドニアはギリシャ, セルビアの係争地と化し, 各地で同盟国同士での対立が生じていた, オスマン帝国はブルガリア, モンテネグロの休戦には成功したが, ギリシャはこれを拒否, イオニアの割譲, アドリア海の支配確立をもくろんでいた, 事態収拾のために12月3日にロンドン講和会議が召集されたが, オスマン帝国が強硬な姿勢を崩さなかったために24日には中断, 1月21日には再び戦いが再開されることとなった, 列強は和解へ向けて仲介したため, 1913年5月17日, ロンドン和平条約により, 第一次バルカン戦争は終結した, 1911年9月, イタリアとオスマン帝国の間で, が勃発, オスマン帝国の落日が明らかになるとバルカン諸国はオスマン帝国の分割の協議を行っていた, そこでヴェニゼロスはブルガリアと同盟を結び, 戦争準備を整えていたが, 1912年9月25日, モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告したことにより, が勃発した, ギリシャは10月5日, を総司令官として参加, テッサリアをブルガリア軍よりも先に占領, フロリナ, カストリアを占領, ギリシャ海軍もエーゲ海の制海権を掌握した, コンスタンティノス王太子, 第一次バルカン戦争, 伊土戦争, ヴェニゼロスはアテネに到着すると打開策を提示, 1910年8月8日に選挙が行われヴェニゼロス派が勝利したが, さらに議会運営を有利に行うために再度の選挙を行うことが決定されたが, 各政党はこれをボイコット, そのためヴェニゼロス率いる自由党が圧倒的多数を占めることとなり, 1911年5月20日, 憲法が改正された, さらにヴェニゼロスは社会改革と経済復興に力を注ぎ, さらに親ドイツ派が多数を占める軍幹部の反対を押し切って, フランスの支援を受けて軍の近代化を行い, フランスから追加の借款1億1000万フランを受けて経済復興にも成功した, 1908年, オスマン帝国で, が発生した, これによりオーストリアは, を併合, ブルガリアも正式に独立, さらにクレタ島もギリシャへの併合を宣言したがこれは列強により阻止された, これにより軍の一部がクーデターを起こし政府の改革を要求, 政府はこれを受け入れた, 軍と議会の対立が急進化したため, クレタ島からエレフセリオス, ヴェニゼロスが事態打開のために呼び寄せられた, ボスニア, ヘルツェゴヴィナ, 青年トルコ人革命, さらに北方国境以北でもスラブ系諸民族が民族主義的観念から蜂起を行っており, ギリシャ人もテッサリアやマケドニアで蜂起をおこなった, 1878年, ベルリン会議により, ルーマニアが独立, ブルガリアの自治国化が決定されたが, はこれらの国の係争地と化しギリシャはタカ派的態度を隠そうとしなかった, 特にブルガリアは民族主義が急進化しており, 総主教座を利用して, の再現を狙っていたが, ギリシャもこれに対抗, 世界総主教座は民族分離傾向が進む中, ギリシャの支援を始めていた, マケドニアでは散発的な戦いが始まり, 列強国も仲介を試みたが, これも進まず, 結局1908年にはマケドニアで戦闘が発生, バルカン戦争まで続いた, 大ブルガリア, 蜂起の最中, 1905年, 戦いではギリシャ軍が敗北したが, 結果としてクレタ島の自治を獲得することに成功した, ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子がクレタ島総督に就任した, しかし1905年, 司法顧問エレフセリオス, ヴェニゼロスと対立が生じ, ヴェニゼロスは総督の交代とギリシャへの併合を求めて革命宣言を行った, これを受けて国際監視委員会は総督の交代とキリスト教徒の地位向上を約束し, ヴェニゼロスはそれを受け入れた, さらに1896年5月, オスマン帝国軍によるキリスト教徒虐殺事件が発生すると, ギリシャは艦隊を派遣して対抗した, 列強国はクレタの自治化を提案したが, オスマン帝国はこれを拒否した, 翌1897年2月, ゲオルギオス1世はクレタ島の占領を決断したものの, 列強に阻止された, ギリシャ北部国境では非正規軍が集結し, ついにオスマン帝国とギリシャは交戦に至った, しかし1878年には再び蜂起が発生し, ハレパ協定, によりクレタ住民の権利が拡大された, ところが1888年, クレタ議会で急進派が勢力を伸ばすと, オスマン帝国は軍を派遣, 急進派は革命議会を設立し, ギリシャとの統合を目指す姿勢を鮮明にした, クレタ島は依然としてオスマン帝国の領土であったが, ギリシャへの統合を求める蜂起が各地で起こり始めていた, 特に1866年の大規模な蜂起は1869年まで続き, さらに列強三国をも巻き込む事態へと発展した, クレタ島におけるキリスト教徒の迫害を理由に列強へ訴えたが, 列強は, 東方問題, の混乱拡大を恐れ, 1869年にドイツのビスマルクがオーストリアを含めてパリ会議を開催し, 結局は現状維持が採用された, クレタ島の蜂起軍, ギリシャ経済においては一部工業において機械化が進みはしたがこれは工業化の促進につながらず, 農業においても1871年に土地分配が終了したことによる小作農の増加し, 1881年の, 併合によって農産物の増加が見込まれはしたが, 自国内で消費する分しか生産できなかった, アメリカ大陸から農産物が安い価格で輸入が開始されるようになると, 農産物の価格が下落し, さらに通貨ドラクマが下落することとなった, ギリシャ経済は悪化するばかりで歳入不足が続いたため, 歳入の3分の1が海外からの借款な上に軍事増強に5割を使用したため, 国内経済基盤の成長に使用されることがなかった, ギリシャでは移民が促進されることとなった, ギリシャにおいて1870年ディレーシ事件が発生, 独立戦争以来生き残っていた武装集団がイギリス, イタリア人らを殺害, これはヨーロッパ諸国にギリシャが, 盗賊どもの住家, 半分野蛮な国, という印象を抱くには十分であり, オスマン帝国時代からヨーロッパの人々が抱いていた古代ギリシャへのロマンが終わりを告げることとなった, さらにギリシャ政府は多大な賠償金を支払いはしたが, この武装集団に対して有効な手段をとることができず, さらに評価を下げることとなった, この武装集団はギリシャの非正規軍として今後, ギリシャ領土拡大に活躍することとなる, ギリシャの政局は中々安定せず, 1880年にトリクピス率いる政党とディリヤンニス率いる政党による二大政党制が出現するまで安定することはなかった, トリクピスが政権につくと国内の改革を行い, 借款に依存した経済の建て直し, 政治の改善, 国内インフラの改良に力を注いだが, 対外政策での強硬手段に失敗が続き, 列強への依存は深まるばかりであった, ディリヤンニスが首相であった時には, が1896年4月の実現を可能にしたことにより, ヨーロッパ諸国にギリシャが西欧の国であることを知らしめることに成功した, 第1回近代オリンピック, ロシアは新たな国王に, の次男クリスチャン, ヴィルヘルム, フェルディナント, アドルフ, ゲオルクを選出, としてギリシャ王に即位した, 彼は後継者を正教徒にするという約束を結んでおり, さらにイギリスが1815年以降, 領有していたイオニア諸島の返還を受けた, 新王即位とともに新憲法が制定され, オソン1世時代の憲法よりも王権が制限され, 普通選挙が導入されたが, これはヨーロッパの中でも早いものであった, クリスチャン9世, オソン1世は王位を追われたものの, ギリシャへの片思いは死ぬまで続き, を身に着けるなどして余生を過ごした, ギリシャの伝統衣装, フスタネッラ, 憲法を形骸化しようとするオソン1世への不満はくすぶり続け, 国王夫妻が, でなかったことがギリシャ人たちの不満をさらに高め, それは反王室運動へと繋がった, 1862年8月, ペロポネソス半島をオソン1世とその妃, が行幸している最中にアカルナニア, パトラ, コリントスの守備隊が蜂起した上で, ディミトリオス, ブルガリス, ルーフォスらが後押ししたクーデターが発生, オソン1世の廃位と新国王の選出, 新憲法の制定を求めた, さらに列強三国らはオスマン帝国の維持と自国の利益を考えたことにより, このクーデターの支持に回ったため, オソン1世は退位を拒否はしたが, 故郷バイエルンに隠棲した, アマーリア, 正教徒, 追放されるオソン1世と妃アマーリア, さらにイギリスはロシア志向のオソン1世に嫌悪感を抱いており, イギリスと結びついていた反王党派指導者ブルガリスが反オソン1世運動の舵を取る事となった, この状況の中, 反王党派は独立戦争時の英雄, を中心に結集した, オソン1世はこれに対して和解を試みたが失敗, 1862年2月にはナフプリオ, ペロポネソス半島の一部, キクラデス諸島の一部で蜂起が発生した, この蜂起は4月には鎮圧され, 指導者の一人であるエパミノダス, デリイオルギスは逮捕された, オソン1世は譲歩を行なって事態を収拾しようとしたが, 依然としてギリシャは危険な状況であった, さらに1859年に行なわれた選挙により議会が開催されたが, これは王党派と自由主義的反王党派の二つに分かれたが, オソン1世は選挙以前から首相を務めていた, による内閣を1862年まで継続させた, ギリシャ内はすでに不穏な空気が流れており, 王妃への襲撃事件や暴動などが発生していた, アサナシオス, ミアウリス, 1859年, オーストリアとイタリアの間で戦争が勃発した際は, ギリシャ人らはイタリアの, に共鳴していたがオソン1世はオーストリアを支持した, オソン1世はクリミア戦争時に得ていた人気を失うこととなった, ジュゼッペ, ガリバルディ, 1843年以降, 歴代内閣はオソン1世に任命されていたが, これはすでに形骸化していた, 特に占領軍が撤退した後, オソン1世の政治介入が激しくなったため, クリミア戦争中になりを潜めていた反王党派の活動が活発化し始めた, ロシアの各派閥の領袖たちも引退し始めたことにより西欧風の自由思想を学んだ新たな世代が西欧的議会主義を待ち望んでいた, この蜂起はオスマン帝国軍によって鎮圧され, フランス両国はイピロス, マケドニアにおけるギリシャ人の蜂起にたいしてもピレアス港を閉鎖してギリシャに中立宣言をさせ, オスマン帝国の維持を図った, そしてクリミア戦争が終了した後もイギリス, フランス軍らは占領を続け, クリミア戦争の講和会議でもあるパリ会議にはギリシャの参加を拒んだ, この占領は1857年まで続き, さらに1859年までは監視委員会が設置されたままであった, これらイギリス, ロシアの活動により, が発生すると1854年, ギリシャはロシア側につき, 当時オスマン帝国領であった, では蜂起が発生, オソン1世は, を支持してギリシャ不正規軍がオスマン帝国領へ侵入することや正規軍が不正規軍を補強することを黙認, さらには, や大学生らがゲリラ部隊に参加, マケドニアに侵入した, クレフテス, これには, 率いるフランスが積極的に介入しロシアが厳重な抗議を行った事により解除されたが, この政策はギリシャ人らに反発をもたらしただけであり, 世論はロシアへ向き, さらオソン1世の人気を高める結果となった, ロシアは借款の元利を放棄, さらにギリシャ正教会とコンスタンティノポリス総主教との間を取り持ち, 1850年1月29日にギリシャ正教会の独立が正式に認められ, コンスタンティノポリス総主教はギリシャ大主教を議長とする主教会議の下にギリシャ正教会が自主独立したとする主教会議令書を発したが, この出来事はロシアがイギリスにかわってギリシャの保護者となったことを示していた, ナポレオン, オソン1世とギリシャ政府は当初, これに対してのらりくらりとかわし続け, 後には抵抗を強めたが, イギリスのパーマーストン外相はギリシャにおける影響力の確立することを決定, 1850年4月から7月までイギリス艦隊はギリシャ封鎖を実施, を封鎖して, のギリシャ人の蜂起を鎮圧した, ピレウス港, さらにオスマン帝国を巡ってイギリス, ロシアら列強による競争がこれに拍車をかけることになり, オソン1世は立憲君主主義者らの暗躍を嫌ってロシアに接近を試みていた, 列強の中でもイギリスはギリシャの自由主義的改革を臨んでおり, 絶えず借款の利払いを求めていた, そしてイオニア諸島の一部であると主張していたペロポネソス半島沖合いの小島2箇所やギリシャ王室が差し押さえた土地への補償などを求め, さらにドン, パシフィコ事件, の補償を求めた, 1848年, ヨーロッパ各地では革命の風が吹き荒れていたが, これはギリシャにも影響を与えた, これは自由主義を目指したものではなく, イデア実現を目指す自由主義的, 保守的な動きと化した, オスマン帝国国境では不正規軍らによる衝突が勃発し, イデア実現を目指す秘密結社が暗躍したが, これはオスマン帝国内のギリシャ人に対する憎悪とイギリスの怒りを招いたにすぎなかった, 憲法が制定されギリシャに立憲君主制が成立, 初の選挙が行われる事になったが, 首相コレッティスはありとあらゆる手段を駆使して対立者を排除, 選挙に勝利して権力を握る事となった, さらにこんどはバイエルン人を排除したギリシャ人政治家による独断政治が行われ, コレッティスは首相就任後, 極端な中央集権主義者と化しオソン1世に政治へ介入することを求めた, コレッティスは, の実現を願っており, 国内政策に対しては無為無策でギリシャの領土拡大のみを狙っていた, 憲法は事実上, 無力化しギリシャ政治は腐敗化, 一種の議会制独裁政治と化した, そして1847年にコレッティスが死去すると相次いで内閣が組閣されたが, これらは全てオソン1世の意向を意向を受けた形骸化した内閣であり, しかも, 短命な政権が続いたことにより, 列強の介入の拡大を導き出すこととなった, この憲法の制定によりギリシャ王国は, となった, 立憲君主制, 憲法が制定された後, ギリシャ人が首相の座につくことになったが, 歴代首相であるフォアナリオティスのマブロコルダトス, ワラキア出身のコレッティス, アルバニア人のクンドゥリオティスらは名目上のギリシャ人でしかなかった, 彼らのほとんどは憲法に関心を払わず, マブロコルダトスに至っては憲法制定後初の首相であったが憲法を裏切る行為のために辞職に追い込まれた, が首相に就任した際にも憲法を重視しなかったため, は憲法に従うそぶりをみせることはなかった, には市民平等, 個人の自由, 出版の自由, 団体の権利が保障され税金納付制限付きで男性のみではあったが実質的普通選挙権が認められた, しかし立法権, 大臣の任命権, 裁判権は王に付随しており, さらに選挙で選ばれる下院, ブゥリイ, だけではなく, 王が任命する上院, ゲルゥシア, との二院制と規定されたため, 著しく王に権利が付随する極端に保守的なものであった, γερυσια, βουλη, 憲法制定後, 万歳の代わりに何年も国民らが叫んだがその意味を深く知る事はなかった, 憲法万歳, ζήτω, σύνταγμα, 革命軍は宮殿を包囲した上で参事院を召集, オソン1世に対して憲法を制定することを求める要望書を提出した, オソン1世はこれに対して小さな抵抗を行なったものの, これを認めた, そのため国民議会が憲法制定のために召集された, 国民議会はイギリス首相ロバート, ピール, フランス外相ギゾーの助言, 勧告を受けておりイギリス派であるマブロコルダトスとフランス派であるコレッティスらが主導権を握った, そのためイギリス, フランス両国が同意していた国王の拒否権と大臣の任命権が認められ, さらにギゾーが主張していた王によって任命される終身議員で構成される上院が創設されることが議論された, 半年に及ぶ議論の後, 1844年3月に憲法は公布された, 1840年に始まったヨーロッパ経済不況のあおりを受けていたギリシャ政府は破産を宣言, 列強三国に信用貸しを行なうよう申し出たが, 列強はこれに対してギリシャ全資産を借金に補填することを決定した, この条約が批准される予定であった1843年9月3日, アテネにおいて, マブロコルダトス, コレッティスらによる無血革命, が発生, 民衆もこれを支持した, デミトリオス, カレルギス, ヤニス, マクリイアニス, さらにイギリスは当時統治していたイオニア諸島において自由主義的改革を行ない, イオニア議会下院ではギリシャにおいて代議制を導入することを討議したが, これはギリシャの立憲主義者を刺激することになった, さらにギリシャが破産状態であったため, 税金も過酷であり, 軍事支出への法外な負担, 列強からの借款の利払いに費やされたため, 世論も不満が高まっていた, そして列強三国もこの状態に不満を抱いており, 不満を持つギリシャ人らの反体制運動に対して支援を行なっていた, 特にイギリスは強く支援を行なっており, イギリス総督府はその司令部と化していた, バイエルン人摂政らによるギリシャ支配はギリシャ人らの不満を惹き起こしていた, そしてギリシャ独立後にギリシャへ移住した, ヘテロフソン, らが王国政府の高い地位を独占していたため, 独立戦争を戦い抜いた軍人らは自らの地位を奪い取られたとして不満を抱いていた, 宮殿に到着したカレルギス, 窓にはオソン1世と妃アマーリア, 1841年7月, オソン1世は閣僚から提案された, への移行を拒否, 提案を行ったギリシャ人外相, を解任した, この行為によりギリシャ人が軽んじられ, さらに借款返済のために財政が引き締められたことにより, オソン1世への不満がさらに高まりを見せることになった, 立憲制, その中, カポディストリアスの元部下やコロコトロニスの後を継いだアンドレアス, メタクサスに率いられたロシア派らは手を結んでオソン1世をギリシャ正教へ改宗させることを目論んだ, これにはバイエルン人の追放を望む立憲主義者らも協力したため, 反カトリック運動は急進化することとなった, イギリスのパーマーストン外相は混迷するギリシャに対して立憲議会の開催を求めたが, オソン1世はこれを拒否, バイエルン人による統治を続けていた, さらにギリシャ王国のギリシャ人らはオスマン帝国支配下のギリシャ人よりも過酷な生活を強いられており, 1830年代初期にはオスマン帝国から移住するよりもギリシャからオスマン帝国へ移住する人が多い状態であった, ルートハルトも結局, アーマンスペルクと同じく恣意的絶対主義でギリシャを支配しようとした, 憲法を望むのはギリシャ人だけではなくイギリス政府も同じであり, イギリスは公使を通じてギリシャへ抗議した, ルートハルトも1年と持たずに辞職, 1847年12月, その後任に初のギリシャ人首相としてコンスタンディノス, ゾグラフォスが就任した, 翌年にオソン1世が妻を捜すためにミュンヘンへ向かった時, 父である, にアーマンスペルク更迭の許可を求めたがルートヴィヒ1世はこれを認めた, 1837年2月オソン1世はオルデンブルク家のアーマリアとともにギリシャへ帰国したが, バイエルンの騎士ルートハルトを伴っていた, そしてアーマンスペルクは更迭され, 第一首相は廃止された, オソン1世が成人になるとアーマンスペルクは自ら第一首相という肩書きを設立して自らの権力を保持したが, 政治的には無能でしかも傲慢な性格は周囲との軋轢を生んだ, さらに摂政たちの間でも諍いが発生しており, アーマンスペルクはマウラー, ハイデックらを更迭して自らがギリシャ王国の支配者と化した, さらにアーマンスペルクはコレッティスをパリ公使としてギリシャ本国から引き離して政治に関わらせないようにした上でアーマンスペルクに従順なアレクサンドロス, マブロコルダトスを利用した, 1833年夏, バイエルン人支配下のギリシャに苛立ったコロコトロニスがロシアの支援を受けてクーデターを起こそうとしたが, コロコトロニスは捕らえられた, 彼は死刑を宣告された後, オソン1世により減刑された, さらに散発的な反乱や違法行為は続いており, 斜陽の国, オスマン帝国との国境ではギリシャ不正規軍がトルコへ侵入, へ侵入して, を略奪するなどの行為を行なっていた, その討伐にオスマン帝国がギリシャ領土に侵入するなどギリシャは常に無秩序に悩まされた, において反乱が発生し, 1836年には, で反乱が発生, そして1839年には, 親正教, フィルオルソドクス, が発覚, さら1840年, オスマン帝国と, との関係が悪化すると, では騒動が発生, ギリシャ全域に不穏な雰囲気が漂っていた, クレタ, アカルナニア, マニ半島, 等輸出用商品の生産が増加しており, 富裕層である地主らの耕地面積は1860年の時点で1840年の倍となっていた, これには人口増加も伴い, 1840年の時点で850, 246人であったのが1861年には1, 096, 810人にまで増加した, ブドウ, ワイン, オリーブ油, 当初はゆっくりとした経済発展も1856年以降, 急激に加速を見せ, 1838年の時点では商船総トン数85, 502トンであったのが1858年には368, 600トンに増加していた, 港湾設備の充実が行なわれ1859年以降, 港湾設備の建設, 電気通信設備, 郵便事業, 道路網整備, 旧式な関税制度の廃止などが行なわれたことによりさらに商活動が活発化することになった, そのため1838年の時点で住民一人当たり輸入25, 輸出8, の値であったのが1851年から1860年の期間には輸入27, 輸出14, に増加していた, これはイギリス, フランスによるオスマン帝国再編成の試みがこの発展を支援することになり, 1855年にはオスマン帝国とギリシャの間では通商条約が結ばれた, ギリシャはオスマン帝国内におけるイギリスの活動へ参加する事が可能となり, 1860年以降はイギリスの会社による活動に共同出資者として参加するギリシャ人らも現れた, とその講和条約である, の締結によりイギリス, による近東, バルカン半島への進出が活発化, これに伴い同じ地域へ進出していたギリシャ商人らの活動も同じく活発化していた, を行き来する船舶3, 000隻の内, 000隻がギリシャに所属しており, 黒海での商行為の大部分をギリシャ商人らが占めていた, さらにエジプトの, における輸送の3分の1を占めていた, アレクサンドリア, ドナウ川, パリ条約, 後に大蔵省や会計検査院も設立されたが, 財政が安定することはなく, オソン1世治世下の国家財政は常に破産状態であった, さらに摂政らは, 貧困家庭への支給, 法を公布して元兵士らの救済を試みた, この法律は結局, 機能せず, 1862年の時点でも国土の35, が国有地であり, 農民20万人が所有する土地は16, に過ぎなかった, そして農民らのほとんどが小作農であり, 十分の一税の他に地主に収穫物の30, を治めなければならなかった, 税金を払っているのはごく一部の農民たちであり, 国家の税収が上向くことはなかった, 公に政府の会計が公表されたのは摂政制導入後4年たってからであったが, 財政の管理が不完全であり摂政らが財源を浪費したため, 散々なものであった, ギリシャの保護者である列強から60億, の借款, を得る事に成功したが, これは軍隊の維持費や借金の利息, 消却に大部分が消えた, そこで改革が行われ, 不正な土地の売買の監視や, 大土地所有者から土地を取り上げ小作農を形成することによる税収増加を図ったが, ギリシャ人らの抵抗により税収が上向くことはなかった, フラン, 国庫制度が制定されたが, これはオスマン帝国時代のものとほとんど同じもので場合によっては改悪されていた, 直接税としては農業生産に対する十分の一税が主要なものであり, 国有財産の使用することにより発生する税と合わせて税収入の25, を占めていた, 間接税としては輸出入に関する税と価格に応じてかかる関税などがあったが, 税収入のほとんどが現物で納められた, 独立戦争で受けた壊滅的な打撃とギリシャの商業中心地である, などがオスマン帝国支配下であったため, からの懸案である国土の復興と経済基盤の形成が急務であった, 共和政時代, スミルナ, 当時のアテネを描いたもの, そして1838年にバイエルン人らによる部隊がギリシャを去ることになったが, 歴代陸軍大臣はバイエルン人が勤めた, 1835年の時点で憲兵隊を合わせて7, 000人がギリシャ軍に所属していたが, この大部分が傭兵であったため, ギリシャの国家財政を著しく圧迫する事となった, 摂政らは独立戦争で活躍したギリシャ不正規軍, 正規軍らが違法行為を行なって秩序を乱していることから1821年に恩赦を発令, 山賊と化した元兵士や難民と化していた農民らを許したが, 恩赦以降に犯罪を犯した場合は厳しい法律でこれを取り締まる事にした, 不正規軍, 正規軍は解体され, 10大隊のエウゾヌ, 軽歩兵, が編成されたが, 部隊にはバイエルンで徴募した志願兵に置き換えられた, さらに主要な地位にはバイエルン, フランスの軍人が就いたため, ギリシャ人兵士はこの中には1, 000人程度含まれているに過ぎなかった, ギリシャ人兵士10, 000人が追放されることとなったが, ギリシャ人の多くが独立戦争時の功績を認められなかったため, この軍に参加することを拒否して, を形成, 時に政治に介入するなど19世紀のギリシャの安定化を阻む問題と化した, 武装集団, この改革により6名未満の修道院が廃止, その財産は国家へ移され, 82の修道院, 3つの尼僧院が残る事となった, さらに教育事業も国家へ移され, これにより各種学校が教会の手から王国に移ったため, 西洋風の制度が敷かれることとなった, ギリシャ教会については1821年にはすでに, の圧力を受けた, が全ての指導者を, したことにより独立状態と化しており, 独立戦争時は無秩序が支配していた, そして非キリスト教国であるオスマン帝国支配下にある教会に従属させることはできないとして, そのため法律家マウラーは新たな規則を提案, 主教会議において, 自体が首長であり国王が任命する教会会議が運営する事が決定, コンスタンティノポリス総主教の同意を得ることなく, 独立したものと法律により規定されコンスタンティノポリス総主教の管理下から抜け出す事となり, を編成した, ギリシャ正教会, ギリシャ教会, コンスタンティノポリス総主教, さらに教育の分野でもフランス, の制度に基いた公教育の基礎が設けられ, 県中心部には3年制のエリニカ, スホリア, ギリシャ学校, と4年制のギムナシア, 中等学校, が置かれさらに1837年には, が初の国立大学として創設されてギリシャ人の, 再ヘレニズム化, が進められ, 古代ギリシャ文化や, の研究に重点が置かれた, 王国外のギリシャ人らもアテネ大学で学問を学び, 卒業後は各地で, ヘレニズムの福音, を伝えた, アテネ大学, さらにアリオスパゴス裁判所が設立され, 第一審裁判所, 軍法会議が3箇所に, 控訴院2箇所, そして破毀院が設けられた, 法律は1835年2月23日に政令が交付されたことにより, の法制, 判例が導入されたが, 慣習法に従うことも認められていた, 当時の法学者によればこの政令は, が基礎を成しているとしているが, 初期においては憲法は制定されなかった, ローマ法, ビザンツ帝国, ナフプリオに到着した王を迎える民衆, オソン1世到着後, 摂政評議会が設立され, アーマンスベルク伯爵が議長に就任した, さらにギリシャ省, 官房局, が設立されギリシャ人が歴代局長を務めたが, これは名目上のものに過ぎず, 摂政らが権力を握っていた, さらに地方は10の県, ノマルヒア, に分けられさらにその下に郡, エパルヒア, が形成された, さらに郡は市町村, ディモス, に分けられ, 国王がその長を任命することになっていた, それまで自治権を持っていた町の自治も廃止され, 西欧風の組織作りが成されたことにより, ギリシャの慣習や伝統は無視され, 住民局がこの管理を行なったが, この局長にはフランス人アレクサンドル, ルジュー, ギュスターヴ, デシュタルが着任, この二人は, の弟子であった, アンリ, シモン, 政治のあらゆる部分においてギリシャ人は排除されており, オソン1世が成人して親政を開始してもバイエルン人による独占的な支配に変化はなく, ギリシャ人の不満が募りつつあった, 独立戦争中, ギリシャ人らはイギリス派, ロシア派に分かれており, さらに自らの持つ利権を守るために対立しており, 摂政たちは強力な中央集権体制を目指し, 軍の改革には断固たる態度で挑んだ, ギリシャはあくまでも, にすぎず, 政治的にも経済的にも外国や外国人に拘束されていた, オソン1世は即位時にはまだ16歳でオソン1世に先んじてギリシャ入りしていた, 法律家, 軍人カール, グスタフ, ハイデック, として選ばれ, オソン1世が成人となる, まで彼らがギリシャの舵取りをおこなった, ゲオルク, マウラー, ヨーゼフ, アーマンスペルク, 保護国, のちに首都は, この時代にはもはや一寒村に過ぎなかったアテネに決定されたが, これは, をモチーフにしたものであり, 古代ギリシャからの脈々と受け継がれたギリシャの歴史が継続されたものであることを示そうとしたものであった, しかし当時のギリシャは, 北部を結ぶ境界線までの, に限定されていた, キクラデス諸島, ペロポネソス半島, ギリシャ本土, ヴォロス, 古代ギリシャ, となるべく王子オットー, ヴィッテルスバッハ, ギリシャ名, が仮首都, へ熱狂的な歓迎の中, 到着した, ギリシャは独立したとはいえ, 列強国, が署名した条約, ギリシャは署名に含まれていない, 列強三国の介入が認められていた, バイエルン政府, ロシア, ギリシャ王, 2月6日, ギリシャおうこく, から独立した, に設けられた, である, 諸国によって, の王子が王に据えられたため国内での支持基盤が弱く, 政変が相次ぎ安定しなかった, της, ελλάδος, 大統領, 関連テーマ, 第三共和政, 国民解放政治委員会, 枢軸国占領下, 国家分裂, 第一共和政, 1829年, 近現代, 1371年, オスマン帝国支配下, 1453年, 東ローマ帝国支配下, 330年, ローマ帝国支配下, 前336年, ヘレニズム, 前508年, 前322年, 古典期, 前8世紀, 前480年, アルカイック期, 前700年頃, 暗黒時代, 前1600年頃, ミケーネ文明, 前1400年頃, ミノア文明, 前3000年頃, キクラデス文明, エーゲ文明, 新石器時代のギリシア, この記事は, の一部です, シリーズ, の歴史, 軍事クーデターにより, 国民投票によりゲオルギオス2世帰国, によりギリシャ解放, 連合国軍, に侵攻され, ゲオルギオス2世は亡命, が成立, 政権下の, ギリシャ侵攻開始, イタリア戦争, ムッソリーニ, 1940年, によるクーデター, メタクサスの独裁政権, 国民投票によりゲオルギオス2世が復位, 立憲君主体制に, ゲオルギオス2世が退位, 第二共和制, 一帯と東, をトルコに返還, トラキア, スミュルナ, 現イズミル, ローザンヌ条約, 政変によりコンスタンティノス1世が退位, アレクサンドロス1世が死去, コンスタンティノス1世が復位, との戦争に敗北, トルコ共和国, に宣戦布告し, に参戦, コンスタンティノス1世が退位し, ドイツ帝国, でゲオルギオス1世が, の反乱に介入し, オスマン帝国と開戦するも敗北, クレタ島, 1897年, イギリスの仲介で, 南部の一部を併合, 1881年, が起きる, ギリシャ王国は中立的立場に, 翌年の, では何も得られずに終わる, ベルリン会議, 露土戦争, 1877年, より新しく, を国王として迎える, イギリスが, を割譲, 革命が勃発し, オソン1世は退位, オソンは専制政治を敷き, 政府の中枢を, 官僚で固めたため, の不満が増大していた, ドイツ人, 記念物法を施行, から独立, の次男オットーを, として迎える, バイエルン王, が始まる, 第一共和制, ギリシャ王国年譜, イタリア領エーゲ海諸島, イカリア自由国, イオニア諸島合衆国, ギリシャ第一共和政, 1973年6月1日, 民政移管, 1943年, 枢軸国による占領, 1915年, エスニコス, ディハズモス, 1912年, バルカン戦争, 1843年9月3日, 憲法制定, 1832年8月30日, により独立, ロンドン議定書, 768, 372人, 752, 077人, 131, 990km, 1971年, 779km, 516, スピリドン, トリクピス, パウロス1世, 共和政, 公用語, 自由への賛歌, ὕμνος, εἰς, τὴν, ἐλευθερίαν, 国の標語, 自由か死か, ἐλευθερία, θάνατος, 1947年までのギリシャ王国の領土の変遷, 1970年, τῆς, ἑλλάδος, フリー百科事典, ウィキペディア, ウィキデータ項目, 他のプロジェクト, 印刷用バージョン, pdf, 形式でダウンロード, ブックの新規作成, 書き出し, レガシーパーサーに切り替え, 短縮urlを取得する, このページを引用, ページ情報, この版への固定リンク, ファイルをアップロード, 関連ページの更新状況, リンク元, 日本語, ノート, ページ, リンクを編集, yorùbá, tiếng, việt, اردو, українська, türkçe, ไทย, தமிழ், svenska, српски, srpski, shqip, slovenščina, slovenčina, simple, srpskohrvatski, српскохрватски, sardu, русиньскый, русский, română, português, پنجابی, polski, bokmål, nynorsk, nederlands, melayu, македонски, latviešu, kurdî, 한국어, ქართული, italiano, indonesia, interlingua, հայերեն, hrvatski, עברית, galego, français, suomi, فارسی, euskara, eesti, español, esperanto, ελληνικά, deutsch, dansk, čeština, کوردی, català, български, тарашкевіца, تۆرکجه, azərbaycanca, asturianu, مصرى, العربية, 脚注サブセクションを切り替えます, グリュックスブルク家の時代サブセクションを切り替えます, ヴィッテルスバッハ家の時代サブセクションを切り替えます, ページ先頭, 個人用ツール, ウィキペディアに関するお問い合わせ, バグの報告, お知らせ, 井戸端, 利用案内, 特別ページ, アップロード, ウィキメディア, 練習用ページ, おまかせ表示, 最近の更新, 新しいページ, 最近の出来事, コミュニティ, メインページ, コンテンツにスキップ,
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らはイギリス派 フランス派 ロシア派に分かれており 5 さらに自らの持つ利権を守るために対立しており 摂政たちは強力な中央集権体制を目指し 軍の改革には断固たる態度で挑んだ 7 10 政治のあらゆる部分においてギリシャ人は排除されており オソン1世が成人して親政を開始してもバイエルン人による独占的な支配に変化はなく ギリシャ人の不満が募りつつあった 行政 編集 オソン1世到着後 摂政評議会が設立され アーマンスベルク伯爵が議長に就任した さらにギリシャ省 官房局 が設立されギリシャ人が歴代局長を務めたが これは名目上のものに過ぎず 摂政らが権力を握っていた さらに地方は10の県 ノマルヒア に分けられさらにその下に郡 エパルヒア が形成された さらに郡は市町村 ディモス に分けられ 国王がその長を任命することになっていた そのため それまで自治権を持っていた町の自治も廃止され 西欧風の組織作りが成されたことにより ギリシャの慣習や伝統は無視され 7 住民局がこの管理を行なったが この局長にはフランス人アレクサンドル ルジュー ギュスターヴ デシュタルが着任 この二人は アンリ ド サン シモン の弟子であった 11 ナフプリオに到着した王を迎える民衆 さらにアリオスパゴス裁判所が設立され 第一審裁判所 軍法会議が3箇所に 控訴院2箇所 そして破毀院が設けられた 法律は1835年2月23日に政令が交付されたことにより ビザンツ帝国 の法制 判例が導入されたが 慣習法に従うことも認められていた ただし 当時の法学者によればこの政令は ローマ法 が基礎を成しているとしているが 12 結局 初期においては憲法は制定されなかった 6 4 さらに教育の分野でもフランス ドイツ の制度に基いた公教育の基礎が設けられ 県中心部には3年制のエリニカ スホリア ギリシャ学校 と4年制のギムナシア 中等学校 が置かれさらに1837年には アテネ大学 が初の国立大学として創設されてギリシャ人の 再ヘレニズム化 が進められ 4 13 古代ギリシャ文化や カサレヴサ 純正語 の研究に重点が置かれた そのため 王国外のギリシャ人らもアテネ大学で学問を学び 7 卒業後は各地で ヘレニズムの福音 を伝えた 8 15 ギリシャ教会については1821年にはすでに オスマン帝国 の圧力を受けた コンスタンティノポリス総主教 が全ての指導者を 破門 したことにより独立状態と化しており 独立戦争時は無秩序が支配していた 16 そして非キリスト教国であるオスマン帝国支配下にある教会に従属させることはできないとして 17 そのため法律家マウラーは新たな規則を提案 主教会議において ギリシャ教会 自体が首長であり国王が任命する教会会議が運営する事が決定 16 コンスタンティノポリス総主教の同意を得ることなく 独立したものと法律により規定されコンスタンティノポリス総主教の管理下から抜け出す事となり 18 ギリシャ正教会 を編成した この改革により6名未満の修道院が廃止 その財産は国家へ移され 82の修道院 3つの尼僧院が残る事となった さらに教育事業も国家へ移され 16 これにより各種学校が教会の手から王国に移ったため 西洋風の制度が敷かれることとなった 2 12 13 軍事分野 編集 摂政らは独立戦争で活躍したギリシャ不正規軍 正規軍らが違法行為を行なって秩序を乱していることから1821年に恩赦を発令 山賊と化した元兵士や難民と化していた農民らを許したが 恩赦以降に犯罪を犯した場合は厳しい法律でこれを取り締まる事にした そのため 不正規軍 正規軍は解体され 10大隊のエウゾヌ 軽歩兵 が編成されたが 部隊にはバイエルンで徴募した志願兵に置き換えられた 11 さらに主要な地位にはバイエルン イギリス フランスの軍人が就いたため ギリシャ人兵士はこの中には1 000人程度含まれているに過ぎなかった そのため ギリシャ人兵士10 000人が追放されることとなったが ギリシャ人の多くが独立戦争時の功績を認められなかったため この軍に参加することを拒否して 武装集団 を形成 時に政治に介入するなど19世紀のギリシャの安定化を阻む問題と化した 7 10 12 1835年の時点で憲兵隊を合わせて7 000人がギリシャ軍に所属していたが この大部分が傭兵であったため ギリシャの国家財政を著しく圧迫する事となった 11 そして1838年にバイエルン人らによる部隊がギリシャを去ることになったが 歴代陸軍大臣はバイエルン人が勤めた 19 財政 編集 当時のアテネを描いたもの 1833年 当初 独立戦争で受けた壊滅的な打撃とギリシャの商業中心地である スミルナ テッサロニキ コンスタンティノープル などがオスマン帝国支配下であったため イオアニス カポディストリアス 率いる 共和政時代 からの懸案である国土の復興と経済基盤の形成が急務であった 7 そのため 国庫制度が制定されたが これはオスマン帝国時代のものとほとんど同じもので場合によっては改悪されていた 直接税としては農業生産に対する十分の一税が主要なものであり 国有財産の使用することにより発生する税と合わせて税収入の25 を占めていた 間接税としては輸出入に関する税と価格に応じてかかる関税などがあったが 税収入のほとんどが現物で納められた 12 また ギリシャの保護者である列強から60億 フラン の借款 9 を得る事に成功したが これは軍隊の維持費や借金の利息 消却に大部分が消えた 20 そこで改革が行われ 不正な土地の売買の監視や 大土地所有者から土地を取り上げ小作農を形成することによる税収増加を図ったが ギリシャ人らの抵抗により税収が上向くことはなかった 21 結局 公に政府の会計が公表されたのは摂政制導入後4年たってからであったが 財政の管理が不完全であり摂政らが財源を浪費したため 散々なものであった 22 さらに摂政らは 貧困家庭への支給 法を公布して元兵士らの救済を試みた しかし この法律は結局 機能せず 1862年の時点でも国土の35 が国有地であり 農民20万人が所有する土地は16 に過ぎなかった そして農民らのほとんどが小作農であり 十分の一税の他に地主に収穫物の30 を治めなければならなかった 結局 税金を払っているのはごく一部の農民たちであり 国家の税収が上向くことはなかった 14 後に大蔵省や会計検査院も設立されたが 財政が安定することはなく オソン1世治世下の国家財政は常に破産状態であった 12 経済 編集 クリミア戦争 とその講和条約である パリ条約 の締結によりイギリス フランス による近東 エジプト バルカン半島への進出が活発化 これに伴い同じ地域へ進出していたギリシャ商人らの活動も同じく活発化していた そのため ドナウ川 を行き来する船舶3 000隻の内 2 000隻がギリシャに所属しており 黒海での商行為の大部分をギリシャ商人らが占めていた さらにエジプトの アレクサンドリア における輸送の3分の1を占めていた 23 これはイギリス フランスによるオスマン帝国再編成の試みがこの発展を支援することになり 1855年にはオスマン帝国とギリシャの間では通商条約が結ばれた このため ギリシャはオスマン帝国内におけるイギリスの活動へ参加する事が可能となり 1860年以降はイギリスの会社による活動に共同出資者として参加するギリシャ人らも現れた 24 当初はゆっくりとした経済発展も1856年以降 急激に加速を見せ 1838年の時点では商船総トン数85 502トンであったのが1858年には368 600トンに増加していた そのため 港湾設備の充実が行なわれ1859年以降 港湾設備の建設 電気通信設備 郵便事業 道路網整備 旧式な関税制度の廃止などが行なわれたことによりさらに商活動が活発化することになった そのため1838年の時点で住民一人当たり輸入25 8 ドラクマ 輸出8 03 ドラクマ の値であったのが1851年から1860年の期間には輸入27 5 ドラクマ 輸出14 98 ドラクマ に増加していた 25 そのため オリーブ油 ワイン ブドウ 等輸出用商品の生産が増加しており 富裕層である地主らの耕地面積は1860年の時点で1840年の倍となっていた これには人口増加も伴い 1840年の時点で850 246人であったのが1861年には1 096 810人にまで増加した 10 25 迷走するギリシャ 編集 1834年 には マニ半島 において反乱が発生し 26 1836年には アカルナニア で反乱が発生 27 そして1839年には 親正教 フィルオルソドクス 陰謀 11 が発覚 19 さら1840年 オスマン帝国と エジプト との関係が悪化すると クレタ テッサリア マケドニア では騒動が発生 ギリシャ全域に不穏な雰囲気が漂っていた 26 1833年夏 バイエルン人支配下のギリシャに苛立ったコロコトロニスがロシアの支援を受けてクーデターを起こそうとしたが コロコトロニスは捕らえられた 彼は死刑を宣告された後 オソン1世により減刑された さらに散発的な反乱や違法行為は続いており 斜陽の国 オスマン帝国との国境ではギリシャ不正規軍がトルコへ侵入 イピロス へ侵入して アルタ を略奪するなどの行為を行なっていた そのため その討伐にオスマン帝国がギリシャ領土に侵入するなどギリシャは常に無秩序に悩まされた 27 さらに摂政たちの間でも諍いが発生しており 1834年 アーマンスペルクはマウラー ハイデックらを更迭して自らがギリシャ王国の支配者と化した さらにアーマンスペルクはコレッティスをパリ公使としてギリシャ本国から引き離して政治に関わらせないようにした上でアーマンスペルクに従順なアレクサンドロス マブロコルダトスを利用した 27 1835年 オソン1世が成人になるとアーマンスペルクは自ら第一首相という肩書きを設立して自らの権力を保持したが 政治的には無能でしかも傲慢な性格は周囲との軋轢を生んだ 28 翌年にオソン1世が妻を捜すためにミュンヘンへ向かった時 父である ルートヴィヒ1世 にアーマンスペルク更迭の許可を求めたがルートヴィヒ1世はこれを認めた 1837年2月オソン1世はオルデンブルク家のアーマリアとともにギリシャへ帰国したが この時 バイエルンの騎士ルートハルトを伴っていた そしてアーマンスペルクは更迭され 第一首相は廃止された 29 しかし ルートハルトも結局 アーマンスペルクと同じく恣意的絶対主義でギリシャを支配しようとした しかし 憲法を望むのはギリシャ人だけではなくイギリス政府も同じであり イギリスは公使を通じてギリシャへ抗議した そのため ルートハルトも1年と持たずに辞職 1847年12月 その後任に初のギリシャ人首相としてコンスタンディノス ゾグラフォスが就任した 29 イギリスのパーマーストン外相は混迷するギリシャに対して立憲議会の開催を求めたが オソン1世はこれを拒否 バイエルン人による統治を続けていた さらにギリシャ王国のギリシャ人らはオスマン帝国支配下のギリシャ人よりも過酷な生活を強いられており 1830年代初期にはオスマン帝国から移住するよりもギリシャからオスマン帝国へ移住する人が多い状態であった 30 その中 カポディストリアスの元部下やコロコトロニスの後を継いだアンドレアス メタクサスに率いられたロシア派らは手を結んでオソン1世をギリシャ正教へ改宗させることを目論んだ これにはバイエルン人の追放を望む立憲主義者らも協力したため 反カトリック運動は急進化することとなった 30 1843年 編集 1841年7月 オソン1世は閣僚から提案された 立憲制 への移行を拒否 提案を行ったギリシャ人外相 アレクサンドロス マヴロコルダトス en を解任した しかし この行為によりギリシャ人が軽んじられ さらに借款返済のために財政が引き締められたことにより オソン1世への不満がさらに高まりを見せることになった 31 32 宮殿に到着したカレルギス 窓にはオソン1世と妃アマーリア バイエルン人摂政らによるギリシャ支配はギリシャ人らの不満を惹き起こしていた そしてギリシャ独立後にギリシャへ移住した ヘテロフソン らが王国政府の高い地位を独占していたため 独立戦争を戦い抜いた軍人らは自らの地位を奪い取られたとして不満を抱いていた 32 さらにギリシャが破産状態であったため 税金も過酷であり 軍事支出への法外な負担 列強からの借款の利払いに費やされたため 世論も不満が高まっていた 32 そして列強三国もこの状態に不満を抱いており 不満を持つギリシャ人らの反体制運動に対して支援を行なっていた 特にイギリスは強く支援を行なっており イギリス総督府はその司令部と化していた 33 さらにイギリスは当時統治していたイオニア諸島において自由主義的改革を行ない イオニア議会下院ではギリシャにおいて代議制を導入することを討議したが これはギリシャの立憲主義者を刺激することになった 30 1843年 12 1840年に始まったヨーロッパ経済不況のあおりを受けていたギリシャ政府は破産を宣言 34 列強三国に信用貸しを行なうよう申し出たが 列強はこれに対してギリシャ全資産を借金に補填することを決定した しかし この条約が批准される予定であった1843年9月3日 アテネにおいて ヤニス マクリイアニス en デミトリオス カレルギス en アンドレアス メタクサス en マブロコルダトス コレッティスらによる無血革命 en が発生 31 33 民衆もこれを支持した 32 革命軍は宮殿を包囲した上で参事院を召集 オソン1世に対して憲法を制定することを求める要望書を提出した オソン1世はこれに対して小さな抵抗を行なったものの 結局 これを認めた そのため国民議会が憲法制定のために召集された 13 国民議会はイギリス首相ロバート ピール フランス外相ギゾーの助言 勧告を受けておりイギリス派であるマブロコルダトスとフランス派であるコレッティスらが主導権を握った そのためイギリス フランス両国が同意していた国王の拒否権と大臣の任命権が認められ さらにギゾーが主張していた王によって任命される終身議員で構成される上院が創設されることが議論された 35 結局 半年に及ぶ議論の後 1844年3月に憲法は公布された 35 36 ζήτω το σύνταγμα 憲法万歳 憲法制定後 万歳の代わりに何年も国民らが叫んだがその意味を深く知る事はなかった 37 憲法 en には市民平等 個人の自由 出版の自由 団体の権利が保障され税金納付制限付きで男性のみではあったが実質的普通選挙権が認められた 14 しかし立法権 大臣の任命権 裁判権は王に付随しており さらに選挙で選ばれる下院 希 βουλη ブゥリイ だけではなく 王が任命する上院 希 γερυσια ゲルゥシア との二院制と規定されたため 著しく王に権利が付随する極端に保守的なものであった 32 38 憲法が制定された後 ギリシャ人が首相の座につくことになったが 歴代首相であるフォアナリオティスのマブロコルダトス ワラキア出身のコレッティス アルバニア人のクンドゥリオティスらは名目上のギリシャ人でしかなかった そして 彼らのほとんどは憲法に関心を払わず マブロコルダトスに至っては憲法制定後初の首相であったが憲法を裏切る行為のために辞職に追い込まれた 39 さらに イオアニス コレッティス が首相に就任した際にも憲法を重視しなかったため オソン1世 は憲法に従うそぶりをみせることはなかった 40 しかし この憲法の制定によりギリシャ王国は 立憲君主制 となった 38 コレッティスの独走とクリミア戦争 編集 憲法が制定されギリシャに立憲君主制が成立 初の選挙が行われる事になったが 首相コレッティスはありとあらゆる手段を駆使して対立者を排除 選挙に勝利して権力を握る事となった さらにこんどはバイエルン人を排除したギリシャ人政治家による独断政治が行われ コレッティスは首相就任後 極端な中央集権主義者と化しオソン1世に政治へ介入することを求めた そして コレッティスは メガリ イデア の実現を願っており 国内政策に対しては無為無策でギリシャの領土拡大のみを狙っていた そのため 憲法は事実上 無力化しギリシャ政治は腐敗化 一種の議会制独裁政治と化した そして1847年にコレッティスが死去すると相次いで内閣が組閣されたが これらは全てオソン1世の意向を意向を受けた形骸化した内閣であり 32 41 しかも 短命な政権が続いたことにより 列強の介入の拡大を導き出すこととなった 42 1848年 ヨーロッパ各地では革命の風が吹き荒れていたが これはギリシャにも影響を与えた しかし これは自由主義を目指したものではなく メガリ イデア実現を目指す自由主義的 保守的な動きと化した ギリシャ オスマン帝国国境では不正規軍らによる衝突が勃発し メガリ イデア実現を目指す秘密結社が暗躍したが これはオスマン帝国内のギリシャ人に対する憎悪とイギリスの怒りを招いたにすぎなかった 43 さらにオスマン帝国を巡ってイギリス フランス ロシアら列強による競争がこれに拍車をかけることになり オソン1世は立憲君主主義者らの暗躍を嫌ってロシアに接近を試みていた 44 45 列強の中でもイギリスはギリシャの自由主義的改革を臨んでおり 絶えず借款の利払いを求めていた そしてイオニア諸島の一部であると主張していたペロポネソス半島沖合いの小島2箇所やギリシャ王室が差し押さえた土地への補償などを求め さらにドン パシフィコ事件 15 の補償を求めた 46 オソン1世とギリシャ政府は当初 これに対してのらりくらりとかわし続け 後には抵抗を強めたが そのため イギリスのパーマーストン外相はギリシャにおける影響力の確立することを決定 1850年4月から7月までイギリス艦隊はギリシャ封鎖を実施 ピレウス港 を封鎖して イオニア諸島 のギリシャ人の蜂起を鎮圧した 44 47 48 49 これには ルイ ナポレオン 率いるフランスが積極的に介入しロシアが厳重な抗議を行った事により解除されたが この政策はギリシャ人らに反発をもたらしただけであり 世論はロシアへ向き さらオソン1世の人気を高める結果となった そのため ロシアは借款の元利を放棄 さらにギリシャ正教会とコンスタンティノポリス総主教との間を取り持ち 1850年1月29日にギリシャ正教会の独立が正式に認められ 50 コンスタンティノポリス総主教はギリシャ大主教を議長とする主教会議の下にギリシャ正教会が自主独立したとする主教会議令書を発したが この出来事はロシアがイギリスにかわってギリシャの保護者となったことを示していた 51 これらイギリス ロシアの活動により クリミア戦争 が発生すると1854年 ギリシャはロシア側につき 当時オスマン帝国領であった イピロス テッサリア マケドニア では蜂起が発生 50 オソン1世は メガリ イデア を支持してギリシャ不正規軍がオスマン帝国領へ侵入することや正規軍が不正規軍を補強することを黙認 さらには クレフテス や大学生らがゲリラ部隊に参加 イピロス テッサリア マケドニアに侵入した 45 52 しかし この蜂起はオスマン帝国軍によって鎮圧され さらにイギリス フランス両国はイピロス テッサリア マケドニアにおけるギリシャ人の蜂起にたいしてもピレアス港を閉鎖してギリシャに中立宣言をさせ 48 オスマン帝国の維持を図った 45 そしてクリミア戦争が終了した後もイギリス フランス軍らは占領を続け クリミア戦争の講和会議でもあるパリ会議にはギリシャの参加を拒んだ 結局 この占領は1857年まで続き さらに1859年までは監視委員会が設置されたままであった 50 オソン1世の迷走 編集 1843年以降 歴代内閣はオソン1世に任命されていたが これはすでに形骸化していた 特に占領軍が撤退した後 オソン1世の政治介入が激しくなったため クリミア戦争中になりを潜めていた反王党派の活動が活発化し始めた さらにイギリス フランス ロシアの各派閥の領袖たちも引退し始めたことにより西欧風の自由思想を学んだ新たな世代が西欧的議会主義を待ち望んでいた 45 53 1859年 オーストリアとイタリアの間で戦争が勃発した際は ギリシャ人らはイタリアの ジュゼッペ ガリバルディ に共鳴していたがオソン1世はオーストリアを支持した そのため オソン1世はクリミア戦争時に得ていた人気を失うこととなった 54 さらに1859年に行なわれた選挙により議会が開催されたが これは王党派と自由主義的反王党派の二つに分かれたが オソン1世は選挙以前から首相を務めていた アサナシオス ミアウリス による内閣を1862年まで継続させた しかし ギリシャ内はすでに不穏な空気が流れており 王妃への襲撃事件や暴動などが発生していた 47 53 この状況の中 反王党派は独立戦争時の英雄 コンスタンティノス カナリス を中心に結集した オソン1世はこれに対して和解を試みたが失敗 そのため 1862年2月にはナフプリオ ペロポネソス半島の一部 キクラデス諸島の一部で蜂起が発生した しかし この蜂起は4月には鎮圧され 指導者の一人であるエパミノダス デリイオルギスは逮捕された オソン1世は譲歩を行なって事態を収拾しようとしたが 依然としてギリシャは危険な状況であった 55 さらにイギリスはロシア志向のオソン1世に嫌悪感を抱いており イギリスと結びついていた反王党派指導者ブルガリスが反オソン1世運動の舵を取る事となった 55 追放されるオソン1世と妃アマーリア その後 憲法を形骸化しようとするオソン1世への不満はくすぶり続け 16 国王夫妻が 正教徒 でなかったことがギリシャ人たちの不満をさらに高め それは反王室運動へと繋がった 17 1862年8月 ペロポネソス半島をオソン1世とその妃 アマーリア が行幸している最中にアカルナニア パトラ コリントスの守備隊が蜂起した上で アテネ でも コンスタンティノス カナリス ディミトリオス ブルガリス ヴェニゼロス ルーフォスらが後押ししたクーデターが発生 オソン1世の廃位と新国王の選出 新憲法の制定を求めた さらに列強三国らはオスマン帝国の維持と自国の利益を考えたことにより このクーデターの支持に回ったため オソン1世は退位を拒否はしたが 結局 故郷バイエルンに隠棲した 47 48 56 57 オソン1世は王位を追われたものの ギリシャへの片思いは死ぬまで続き ギリシャの伝統衣装 フスタネッラ を身に着けるなどして余生を過ごした 47 57 グリュックスブルク家の時代 編集 この節の 加筆 が望まれています イギリス フランス ロシアは新たな国王に デンマーク 国王 クリスチャン9世 の次男クリスチャン ヴィルヘルム フェルディナント アドルフ ゲオルクを選出 1863年 ゲオルギオス1世 としてギリシャ王に即位した 彼は後継者を正教徒にするという約束を結んでおり さらにイギリスが1815年以降 領有していたイオニア諸島の返還を受けた 新王即位とともに新憲法が制定され オソン1世時代の憲法よりも王権が制限され 普通選挙が導入されたが これはヨーロッパの中でも早いものであった 58 しかし ギリシャの政局は中々安定せず 1880年にトリクピス率いる政党とディリヤンニス率いる政党による二大政党制が出現するまで安定することはなかった トリクピスが政権につくと国内の改革を行い 借款に依存した経済の建て直し 政治の改善 国内インフラの改良に力を注いだが 対外政策での強硬手段に失敗が続き 列強への依存は深まるばかりであった 一方 ディリヤンニスが首相であった時には 第1回近代オリンピック が1896年4月の実現を可能にしたことにより ヨーロッパ諸国にギリシャが西欧の国であることを知らしめることに成功した 59 しかし ギリシャにおいて1870年ディレーシ事件が発生 独立戦争以来生き残っていた武装集団がイギリス イタリア人らを殺害 これはヨーロッパ諸国にギリシャが 盗賊どもの住家 半分野蛮な国 という印象を抱くには十分であり オスマン帝国時代からヨーロッパの人々が抱いていた古代ギリシャへのロマンが終わりを告げることとなった さらにギリシャ政府は多大な賠償金を支払いはしたが この武装集団に対して有効な手段をとることができず さらに評価を下げることとなった しかし この武装集団はギリシャの非正規軍として今後 ギリシャ領土拡大に活躍することとなる 60 ギリシャ経済においては一部工業において機械化が進みはしたがこれは工業化の促進につながらず 農業においても1871年に土地分配が終了したことによる小作農の増加し 1881年の テッサリア 併合によって農産物の増加が見込まれはしたが 自国内で消費する分しか生産できなかった また アメリカ大陸から農産物が安い価格で輸入が開始されるようになると 農産物の価格が下落し さらに通貨ドラクマが下落することとなった そのため ギリシャ経済は悪化するばかりで歳入不足が続いたため 歳入の3分の1が海外からの借款な上に軍事増強に5割を使用したため 国内経済基盤の成長に使用されることがなかった このため ギリシャでは移民が促進されることとなった 61 クレタ島の蜂起軍 この頃 クレタ島は依然としてオスマン帝国の領土であったが ギリシャへの統合を求める蜂起が各地で起こり始めていた 特に1866年の大規模な蜂起は1869年まで続き オスマン帝国 ギリシャ さらに列強三国をも巻き込む事態へと発展した ギリシャは クレタ島におけるキリスト教徒の迫害を理由に列強へ訴えたが 列強は 東方問題 の混乱拡大を恐れ 1869年にドイツのビスマルクがオーストリアを含めてパリ会議を開催し 結局は現状維持が採用された しかし1878年には再び蜂起が発生し ハレパ協定 によりクレタ住民の権利が拡大された ところが1888年 クレタ議会で急進派が勢力を伸ばすと オスマン帝国は軍を派遣 急進派は革命議会を設立し ギリシャとの統合を目指す姿勢を鮮明にした さらに1896年5月 オスマン帝国軍によるキリスト教徒虐殺事件が発生すると ギリシャは艦隊を派遣して対抗した 列強国はクレタの自治化を提案したが オスマン帝国はこれを拒否した 翌1897年2月 ゲオルギオス1世はクレタ島の占領を決断したものの 列強に阻止された 一方 ギリシャ北部国境では非正規軍が集結し ついにオスマン帝国とギリシャは交戦に至った 戦いではギリシャ軍が敗北したが 結果としてクレタ島の自治を獲得することに成功した さらに ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子がクレタ島総督に就任した しかし1905年 司法顧問エレフセリオス ヴェニゼロスと対立が生じ ヴェニゼロスは総督の交代とギリシャへの併合を求めて革命宣言を行った これを受けて国際監視委員会は総督の交代とキリスト教徒の地位向上を約束し ヴェニゼロスはそれを受け入れた 62 蜂起の最中 エレフセリオス ヴェニゼロス 中央 1905年 さらに北方国境以北でもスラブ系諸民族が民族主義的観念から蜂起を行っており ギリシャ人もテッサリアやマケドニアで蜂起をおこなった 1878年 ベルリン会議により セルビア ルーマニアが独立 ブルガリアの自治国化が決定されたが マケドニア 18 はこれらの国の係争地と化しギリシャはタカ派的態度を隠そうとしなかった 特にブルガリアは民族主義が急進化しており 総主教座を利用して 大ブルガリア の再現を狙っていたが ギリシャもこれに対抗 世界総主教座は民族分離傾向が進む中 ギリシャの支援を始めていた マケドニアでは散発的な戦いが始まり 列強国も仲介を試みたが これも進まず 結局1908年にはマケドニアで戦闘が発生 バルカン戦争まで続いた 64 エレフセリオス ヴェニゼロス 1908年 オスマン帝国で 青年トルコ人革命 が発生した これによりオーストリアは ボスニア ヘルツェゴヴィナ を併合 ブルガリアも正式に独立 さらにクレタ島もギリシャへの併合を宣言したがこれは列強により阻止された これにより軍の一部がクーデターを起こし政府の改革を要求 政府はこれを受け入れた その後 軍と議会の対立が急進化したため クレタ島からエレフセリオス ヴェニゼロスが事態打開のために呼び寄せられた 65 ヴェニゼロスはアテネに到着すると打開策を提示 1910年8月8日に選挙が行われヴェニゼロス派が勝利したが さらに議会運営を有利に行うために再度の選挙を行うことが決定されたが 各政党はこれをボイコット そのためヴェニゼロス率いる自由党が圧倒的多数を占めることとなり 1911年5月20日 憲法が改正された 19 さらにヴェニゼロスは社会改革と経済復興に力を注ぎ さらに親ドイツ派が多数を占める軍幹部の反対を押し切って イギリス フランスの支援を受けて軍の近代化を行い フランスから追加の借款1億1000万フランを受けて経済復興にも成功した 67 バルカン戦争と第一次世界大戦 編集 この節の 加筆 が望まれています 1911年9月 イタリアとオスマン帝国の間で 伊土戦争 が勃発 オスマン帝国の落日が明らかになるとバルカン諸国はオスマン帝国の分割の協議を行っていた そこでヴェニゼロスはブルガリアと同盟を結び 戦争準備を整えていたが 1912年9月25日 モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告したことにより 第一次バルカン戦争 が勃発した ギリシャは10月5日 コンスタンティノス王太子 を総司令官として参加 テッサリアをブルガリア軍よりも先に占領 フロリナ カストリアを占領 ギリシャ海軍もエーゲ海の制海権を掌握した 68 マケドニアはギリシャ ブルガリア セルビアの係争地と化し 各地で同盟国同士での対立が生じていた オスマン帝国はブルガリア セルビア モンテネグロの休戦には成功したが ギリシャはこれを拒否 イオニアの割譲 アドリア海の支配確立をもくろんでいた 事態収拾のために12月3日にロンドン講和会議が召集されたが オスマン帝国が強硬な姿勢を崩さなかったために24日には中断 1月21日には再び戦いが再開されることとなった この最中 列強は和解へ向けて仲介したため 1913年5月17日 ロンドン和平条約により 第一次バルカン戦争は終結した 69 しかし マケドニアを巡る争いは終結しておらず ギリシャはテッサロニキを巡ってブルガリアと対立 同じくブルガリアを脅威と考えていたセルビアと相互防衛条約の締結に至った しかし この直後の1913年6月16日 ブルガリア軍が攻撃を仕掛ける事件が発生 ここに第二次バルカン戦争が開始されることとなったが ルーマニアとトルコが参戦したため ブルガリアは降伏 1913年7月28日にブカレスト講和条約が調印されることとなった この戦いにより ギリシャはカヴァラを獲得 ギリシャ トルコ間の戦いもアテネ条約により 11月1日に終結した ギリシャは2度のバルカン戦争を通して 国土は90 人口が80 増加したが 新たに少数民族を抱えた上に 未回収の地域も存在 さらに戦費の消費による莫大な赤字を抱えることとなった ヴェニゼロスはこれらの戦争による財政赤字などにより国力が低下したため 戦争を望んでいなかったが 1914年6月 サラエボ事件が発生すると ギリシャも巻き込まれることとなった 69 第一次世界大戦 が勃発することにより ギリシャは複雑な関係に巻き込まれることとなった 中央同盟側の ドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世 はギリシャ王コンスタンデイノス1世の義兄にあたること 中央同盟国であるオーストリアに敵対するセルビアとバルカン戦争時に相互防衛条約を結んでいること また ギリシャは建国以来 中央同盟と敵対する三国協商国であるイギリス フランス ロシアの保護国であったことや フランスからの借款でギリシャの経済が成り立っていたことなどが存在し さらにオスマン帝国やブルガリアの立場が不明であったことであった このため 連合国 はオスマン帝国とブルガリアを敵陣営に引き込む可能性が存在することを考え また ギリシャ軍内部にも親ドイツ派が存在していたことからギリシャは中立の方針を採用することとなった 70 しかし 1914年 オスマン帝国が 中央同盟国 側に参戦したことにより イギリスはアナトリアの西海岸を与えることを約束してギリシャへの参戦を促したが イオニアス メタクサスを中心とする親ドイツ派の軍幹部 国王らが反対したためヴェニゼロスは辞任して選挙を行い これに勝利した上で再度 首相に着任したが このときは参戦しなかった しかし 10月 ブルガリアが中央同盟側で参戦すると連合国はギリシャへ参戦の圧力をかけ始めた 議会はセルビア支援の決議を行ったが 国王はこれに反対 ヴェニゼロスは解任された 71 この最中 連合軍はテッサロニキへ上陸し エーゲ海北岸を占領 崩壊したセルビア軍支援のための圧力をかけており さらにブルガリア軍はギリシャ領であったマケドニアに侵攻 カヴァラも占領された この事態に至って ヴェニゼロスはテッサロニキで臨時政府の樹立を宣言 ギリシャは二分割されることとなった ここで激しい戦闘が行われたが 1917年6月 国王コンスタンディノス1世が亡命 ヴェニゼロスはアテネへ戻り 議会の再召集を行い国王支持者追放 さらに基盤を固めたが これにより ヴェニゼロス派と国王派との対立は和解構築が不可能な状況に追い込まれていた その後 ギリシャ議会は中央同盟側との国交断絶と宣戦布告を決定 これによりバルカン戦線は連合側に有利に働き 第一次世界大戦は連合側の勝利で終了 ギリシャは戦勝国となった 72 第二共和制の成立 編集 詳細は ギリシャ第二共和政 を参照 この節の 加筆 が望まれています ヴェニゼロスはパリ講和会議に参加すると小アジア西部 トラキア東部 イピロス北部の要求をおこなったが イタリア軍がアンタルヤに上陸したため 1919年5月 ギリシャ軍も小アジアへ上陸 このため翌年のセーブル条約でイズミルを含む小アジア西部のギリシャ割譲を得たがギリシャ軍はセーブル条約で規定されて箇所を越え さらなる領土拡大を目指していた この時 ヴェニゼロスは選挙で破れ コンスタンディノス1世による親政により ヴェニゼロス派が政府要員から追い出されていたが この方針は維持した 73 小アジアではギリシャ人のポンドス共和国 クルド人によるクルド国家などトルコの少数民族が自らの国家設立を企んだ活動をしていたが これを危機としたトルコ人およびムスタファ ケマルらはアンカラで革命政権を樹立 各地の分離活動の鎮圧に消極的なオスマン帝国に変わり活動を開始した ギリシャ軍は小アジアの各地を占領してはいたが 革命政権はこれに反撃 1923年9月までにギリシャ軍は追い出されることとなった 74 この敗北により 再びヴェニゼロス派の勢いが増すこととなり ヴェニゼロス派のニコラオス プラスティラスがクーデターを行うことにより国王コンスタンディノス2世は退位 トルコでの敗北の責任を取って 6名が処刑された 1924年4月 ヴェニゼロス派は王制の信を問う国民選挙を開始 国内での王党派 ヴェニゼロス派の対立に決着を狙ったが これは見事にヴェニゼロス派の思惑通り 王制廃止 共和政移行が決定された 結局 セーブル条約で得た小アジアの領土は1923年7月に結ばれたローザンヌ条約により失われたが ドデカネス諸島を除くエーゲ海の島嶼を得ることとなり さらに ギリシャ トルコ...
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